いつか別れてゆく人へ
障子紙を通して淡く光が差している。雪明かりだろうか、考えながら尾形は重い躰を起こした。わざわざ確かめに行こうという気にはならなかった。部屋の壁も畳もしんと芯から冷え切って、その静謐さから外の様子がおおよそ知れた。
傍らに横たわる男の白い胸が寝乱れた夜着に見え隠れしていて、特に何を思うでもなく、尾形はそこにひたりと手を這わす。温い。表皮の感覚を弄ぶように撫ぜてやると、勇作は鼻にかかった甘い息を昨夜の残滓のごとくに洩らして、その身を微かに震わせた。掌に伝わる鼓動は心持ち速い常歩で、その下に通う血潮の熱ともども尾形のそれには決して同調しない――どれだけ近く膚を合わせた後でも、どれだけ深く身を暴いた後でも。
「兄様」
流石にいつまでも眠っているふりをする気はないらしい。春の蕾の綻ぶように瞼を開いた勇作の、朧ろに潤んだ視線の一途。尾形は目の眩む思いだった。もとより父を同じくするだけの、姿容からして似ても似つかぬ兄弟ではあるものの、共寝をする間柄の人間を未だ兄と呼び慕う神経が尾形にはどうもよくわからない。男兄弟は一緒に悪さもするもの、というのは殺し文句としては確かに上等であったと思うが、言われた側は果たしてどこまで信じたろうか。
いずれにしろ、こうして共に悪事を働くようになってさえ、花沢勇作という人間の価値を損なうに至らないのは尾形にとって誤算もいいところだった。節度、清さ、兄に対する敬意と憧憬。兵営で出会った時から何ひとつとして失わずにいる。尾形はそれが面白くなかった。奪えども奪えぬ、穢せども穢せぬ魂の高潔。祝福された子どもだけが持ち得る至上の徳。そんなものがあるはずはないと理屈を数多並べながら、その存在を否定できるだけの瑕疵を、尾形はこの異母弟に依然見出すことができていない。
まして、それを探して奥まで立ち入るような真似をすれば、その時は尾形の方もまったく無傷というわけにはいかなかった。撃発、排莢、装填を三拍子に繰り返すだけでよい銃とはまったく勝手が違う。まず間合いからして違う。これは銃剣よりも程近く、己のものでありながら往々にして意に沿わない。
無様に吐き出した分だけ、何かを取り戻したくなる。
目的を果たせなかったと思えば、なお獲物に執着する。
たとえば今のように。
「こうして触れていると、」自棄と自嘲、そして気怠さのないまぜを遠からず自覚しながら、尾形は淡々と言葉をこぼした。「あなたが俺でないことがよくわかる」
「……同じではない、ですか?」
「まあ、そのような意味です」
はしばみ色の眸がわかりやすく揺れるのを見、尾形は触れていた手を引っ込めて言った。
「最中、俺とあなたは限りなくひとつに近いはずだ。なのに少し離れると違いばかりが目について、もうあなたは俺ではなく、俺もまたあなたではない」
敢えてそこで言葉を切った尾形だが、予想に反して異母弟が口を挟むことはなかった。そんなことありません、とその造り物めいて整った顔に書いてあるかと思えば別段そういうこともなく、勇作は長く艶やかな睫毛を伏せて押し黙り、何か思い詰めている風な表情をしていた。
噤まれたままの唇を尻目に、尾形は抑揚なく語を継いだ。
「いや、実際には束の間の夢を見ているだけで、初めから終わりまでそうでしかないのかもしれません。だとすれば、こんなことはなおさら無意味だ。……勇作殿。あなたも、そうは思いませんか」
問いの形にしておきながら、尾形に答えへの期待は微塵もなかった。勇作を貶めることができない以上、尾形にとってそれは問うまでもなく無意味であり、先の言葉も情交相手を道連れにする一方的な宣言に過ぎない。もっとも、厳密に言えば勇作との行為は情交ですらなかった。尾形の側に交わすべき情というものはないからだった。
数分に渡る沈黙の後、おそらくはぎりぎりまで言葉を選んでいたのだろう、尾形が着替えに手を伸ばしかけた時になって、勇作は漸くその口を開いた。
「私の中の波が引いた後、……そのことを、寂しい、とは思います」
「寂しい?」尾形は意外を顔に出さず訊き返した。「……あなたが?」
ええ、と頷いた勇作の眉間には、どこか痛みを思わせる深い皺が寄っている。さほど手荒な伽をしたつもりはない尾形は異母弟の繊細に訝りの目を向けたが、その全てが軍人らしからぬ感傷の所産と気づくと俄に馬鹿らしくなり、天井の木目に視線を流した。
「兄様も予てご懸念の通り、軍人である我々に残された平時の時間はもう、あまり長くはないでしょう」俯いた勇作の喉が震える。「しかし、今の緊迫した情勢こそが私と兄様を父上のもとに巡り合わせてもくれました」
「皮肉なものですな」片笑みも作らず尾形は述べた。
「そう、かもしれませんね」
まなざしが敷布の上を泳ぐように彷徨って、再び尾形へと戻ってくる、と思うとまた逡巡の海に沈む。そんなことを二、三度繰り返した後で、勇作は訥々と語り始めた。その頬には今更に過ぎる含羞の色があった。
「束の間の夢でも良いと思いました。兄様と同じ夢が見られたなら、その思い出だけで私は私の道を歩んでいける。兵たちのよすがとして、旗手の使命を全うできる。そう思っておりました。なのに、……お恥ずかしいことです。どうしても、私は夢の名残を惜しんでしまう」
数瞬の間を置いて、勇作の手が遠慮がちに兄の衣裾を引く。縫い留められた尾形は目の前の人物と、その指の掴む箇所とを交互に見遣った。
「……すみません、兄様。今はもう少しだけ、……もう少しだけ、どうかお傍に」
「それは命令ですか、花沢少尉殿」
「そうです。尾形上等兵」
揶揄の言葉に苦い笑みが返ってくる。上に馬鹿のつく正直者の勇作は、嘘にならない嘘しかつかない。腕など見れば自分より遥かに逞しくあるのに、縋るようなその手は未だ力尽くということを知らぬものと尾形には思えた。
事実、勇作は何も知らない。薩摩閥の重鎮である父を取り巻く陰謀の類も、実の兄が敵対勢力の刺客だということも。このまま父の期待を裏切らず、鶴見一派にも靡かないとすれば、なまじ求心力のあるがゆえに邪魔な勇作はいずれ戦場のどさくさに始末される。その時、引き金をひく役目は他でもない、狙撃手の尾形が担うのだ。そうして初めて尾形は父の寵愛を手に入れる、というところまでが鶴見の用意した筋書きである。
しかし、そんな破滅の未来など露知らず、勇作はあくまで旗手たらんと目に覚悟の光を湛えて兄を見る。そのくせ誘われるまま兄と寝て、兄を想い、兄の理解を超えた話をする。
「我儘をお許しください」眼下の白皙が苦悶に歪む。それは懇願のことばだった。
尾形は何も言わなかった。
忍び寄る朝焼けが、部屋の空気を刻一刻と変え始めていた。
こう見えて我の強い勇作をどうこうするのも煩わしく、尾形はひとつため息をつくと、やがて元のように横になった。ありがとうございます、という囁きが耳に聴こえたが、素知らぬ振りをした。この場に留まるだけの理由は探せばいくらでも見つけられたし、乞われたからではないと自身証明できれば、そんなものはなんでもよかった。実を言えば、ひどく疲れていた。
裾を握っていた指が布団の中を伸びて、そろそろと尾形の手を探った。前後して、勇作が近くに身を寄せてくる。やわらかに匂う石鹸、そして火遊びの残り香。あらわな首すじに、つけた覚えもない執着の徴が今なお生々しく残っている。尾形はそれから目を逸らすようにして、すぐ傍のなだらかな丘陵に鼻先を埋めた。間違いなく半分は同じ血が流れているはずなのに、そこにあるのは自分とは違う温度、自分とは違う鼓動、自分とは違う呼吸、自分とは違う感情――自分とは違う存在。不可侵の祝福。
それらは矢張りいつまでも尾形の思う通りにはならなかったが、ふたりを隠していた夜の気配が掃き出され、絡めた指を勇作が自ら解くまで、尾形は長く、随分と長くそうしていた。ひとり去るにはあまりにも寒い日の朝だった。