← 戻る

この世の地獄

 その銃は、骨董屋の一角にひっそりと置かれていた。油の染みた黒木の底板に横たわる小銃。日に焼けて黄ばんだ札には「三十年式歩兵銃」と書かれている。値段は思ったより安かった。
 田島はそこで足を止めた。周囲を見渡すが、人の影はない。棚には雑多な旧軍装品――くすんだ軍帽、煤まみれの飯盒、整列された釦、錆の浮いた水筒が所狭しと並べられている。どこかの誰かの遺品なのか、はっきり言ってどれも二束三文にしかならなさそうな状態の悪さだったが、この一挺だけは別だった。
 模造品? ……にしては、傷の付き方が妙にリアルだ。
 なんとも不用心なことで、ケースに鍵はかかっていなかった。触れてみると、冷たい。あきれるほども冷たい。夏の昼下がりだというのに、銃身はまるで人の手を拒むかのように、きりりとした温度を保っている。
「お目が高いですね」
 と棚の向こうから声がして、ようやく店番が現れた。歳の頃は二十代前半くらいか。野暮ったい店の雰囲気とは不釣り合いな、整った顔立ちの青年だった。今流行りの、言わば線の細いアイドル俳優風かと言えばそうではなく、タッパがあって筋肉質の、凛々しいという形容がしっくり来るような美形だが、口調には都会的な柔らかさがあった。しかし特筆すべきは青年の珍しい服装だった。明治の陸軍将校の、およそ完璧な衣装一式。これほど質の高いコスプレは品評会でも滅多にお目にかかれない、と田島は唸った。それから当然のようにこう考えた。いくらしたんだろう。
「その小銃、よく見てくださってありがとうございます」青年は見た目通りの礼儀正しさで、慇懃に礼を述べた。「見た目は古いですが、状態は良好です」
「模造品にしちゃよく出来てるな。レプリカじゃなくて、改造実銃だったりしないだろうね?」
「軍の払い下げ品を加工したものです。あくまで装飾用に整えたものですから、弾は込められません。……まあ、触れた方のほとんどが、買わずに帰られますが」
「なんで?」
「妙に冷たく感じる、何か変だ、と。皆さんそう仰いますね」
「……へえ」
 訳アリ品だから安いのか。田島はもう一度、銃に視線を落とした。さっき触れたときの異様な冷たさが、今も皮膚の裏にじんわりと残っている。でも、それがなんだというのか。古い金属なんかみんなこんなものだろう。
「持ってみても?」
 どうぞ、と青年は銃を出してよこした。どういうわけか、それは先程よりも更に冷たくなっていた。汗が凍るような感触に一瞬、指が震えたが、合理主義者を自負する田島は努めて大げさに笑った。
「おお、ほんとうだ。……しかしあんた、若いのに随分詳しいね。言っちゃ悪いが、こういう趣味の人間には見えないな」
「詳しい、ですか。どういうことを詳しいと呼ぶかにもよりますが……」
「なんだい、煮え切らない返事だな。あんたも男ならもっと、」
「撃たれたことなら、ございますよ」
「え?」
 どこでだよ、と笑いながら聞き返そうとした時、
「……っあ、」
 世界が軋むような耳鳴りに、田島は思わず蹲った。しゃがみ込んだそこは青年の影の中で、なぜかひどく暗く、身震いするほども寒い。そして次の瞬間には、田島の五感は知るはずのない記憶に圧倒されていた。大地を揺らす砲声、銃声、そして怒号。次々に斃れる兵士たち。緋に染まった地面はもはや原型のわからない肉片や骨と無数の屍、四肢が砕け、内臓は焼け、それでも死にきれない生者で埋め尽くされている。その上を、次から次へと後続が駆けてゆく。
 それはまさにこの世の地獄と言うべき光景で、とても息など吸えたものではないと田島は思った。が、その記憶の主は平静そのものだった。それまで何千、何万回と繰り返してきたように、よどみなく小銃を構え、遥か前方の的にぴったりと狙いを合わせると、絹のような滑らかさで引き金を絞った。銃声が轟く。派手に血を噴いたその男は軍旗の柄を握り締めたまま、膝からがっくりと崩折れ――近くにいた兵が絶望の悲鳴を上げるまで、田島も「まさか」と思っていた。しかし銃は撃ったのだ。味方を。味方の、旗手を。
「……いかがされました? お客様」
 青年の声で我に返った田島だったが、返事をしようにも興奮のあまり声が出ない。4DXとかVRなんて目じゃないほどの臨場感。これこそ"本物"の銃だ。戦争の只中にあって、ほんとうに人を殺した銃。鉄と火薬と血の記憶をそこに留める銃。このいわくつきを安く買い叩いてマニアに売りつければ、一体どれだけの利益を生むことか! SNSでバズらせてから、欲しがる奴ら同士を競わせて、値段を釣り上げられるだけ釣り上げるのもいい。そうすれば欲しかったあのブランドの財布も時計も、みんな手に入るかもしれないのだ。あれこれと皮算用をしながら、田島は歓喜に打ち震えた。しかしどうして――ここはこんなに寒いんだ?
「いけませんなあ、勇作殿」
 不意に、奥の襖が音なく開いた。そこから現れたのは、流水紅葉の着流しを纏ったもう一人の男だった。抜けるほども白い膚に、丁寧に後ろに撫でつけた黒髪。顎髭と頬傷はいかついが、これらがなければ結構な童顔の部類だろう。だが何よりも田島の興味を引いたのは、ぽっかりと空洞になっている彼の左目だった。よく見ればどうやら右目の方も、義眼か何かであるらしい。
「またひとり魅入られましたよ」男はくつくつと笑って言った。
「兄様」青年が痛ましく目を伏せる。「どうして、こうなってしまうのでしょう」
「諦めの悪い人だ」兄様と呼ばれた男はため息をついた。「後の時代の人間に、この銃の本当の価値なんてわかりゃしませんよ。まったく、三途の川の渡し賃を稼ぐのも楽じゃありませんな。まともな買い手なんかいるわけもない。まあ、今更成仏できなくたって死にはしません。もう死んでますからね」
「ですが、それでは兄様はいつまでも……」
「このままで――いや、このままが良いんですよ。供養だの赦しだの、もってのほかです。……俺はあなたを殺したんですから」
 彼らのやりとりは穏やかなものながら、不可解なほどに哀調を帯びていた。そこで田島はあることに気づいた。軍帽の影になってよくわからなかったが、青年の方もまた、いつの間にか左目をなくしていた。背格好といい面立ちといい、きょうだいにしては似ても似つかぬふたりだが、左目は揃って欠けているのだった。
 視線に気づいた青年が、田島の方に向き直った。その空っぽの眼窩から、ひとしずくの赤が伝い落ちる。
「何を勝手に憐れんでるんだ? 俺は客だぞ!」
 そう声を張り上げた時には、弟だけでなく兄の姿も、そこから夢のように消えていた。

 冷房が効きすぎたのか、ひとり残された田島は寒くて仕方がなかった。銃は持ったまま、ふとスニーカーの足元を見る。すると床板の隙間から、真っ赤な染みがじっとりと広がってきているのだった。それは床を、棚を、田島の影を逃げる間もなく呑み尽くし、やがて高らかな炸裂音がひとつ、店の中に響き渡った。左頬に何か滴るものを感じて、田島はそこに手を伸ばした。指先にぬるりとした感触を得て、あれ、と首を傾げる。おかしいな。弾は込められないんじゃなかったのか? でもまあ、いいや――これでやっと、あったかく、なった、から。

Webclap

拍手

よかったら拍手やひとことをお送りください。

このページの拍手: --

0 / 500