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さまよえる黒猫

 時は二○XX年、自分たちを無謬の神と思い込んだ人類は当然の帰結として第三次世界大戦を引き起こし、地球をまったく駄目にしてしまったが、生き残った少数の者が地下で身を寄せ合うように暮らしていた。それでもなお人類はつける薬もないほど愚かであったので、数十年の後、生存に不可欠な空気清浄装置がメーカー耐用年数よりも遥かに短い期間しか持たないらしいことがわかると、現在稼働中の数機を止めて“選ばれし者”たちのために温存する策が採られ、多くの“選ばれない者”たちが死に、やがて命の選別を巡ってまた殺し合いが始まった。前大戦で使われたような大量殺戮兵器はもうなかったが、“敵”を始末するには鉄パイプの一本もあれば十二分だということを人々が思い出すまで、そう時間はかからなかった。これが第四次世界大戦勃発の経緯いきさつである。それらの暴力は決して終わることがなく、ヒトという種は自らを裁く形で愈々その数を減らしていった。もっとも、新鮮なタンパク質の供給には困らなかったという。
 時代にそぐわぬ平和主義者のユウサク・ハナザワ青年がそんな血なまぐさい故郷ふるさとを捨てたのは、旧世紀の暦でちょうど一年前のことである。しかしながら、空気清浄装置のあるシェルターを離れる、すなわち汚染された外気に生身をさらすことは早晩の死を意味し、一年間の放浪生活と引き換えに全身くまなく病んだ彼は、今や廃墟の片隅で愛猫に末期の水をとられるのを待つばかりであった。
 生という生の死に絶えたはずの地上で勇作により発見された、まるで夜闇を型で抜いたかのようなこの生き物は、むかし死に別れた兄を偲ぶ青年から兄様アニサマという名を頂戴していた。

「兄様」
 ミイ、と譫言に返事があった。燃えるような金の目が注意深くこちらを見ている。それによって、勇作の意識は辛うじて死の淵から浮上する。眠りに落ち、目が覚める度に、その浮力は着実に弱くなってきていた。もう次はないかもしれない。そう思うと勇作は切なくて恐ろしくてたまらなくなるのだが、病魔は表向きには実に紳士的な、感嘆に値するようなやり方で、勇作の意識をいとも容易く攫ってしまう。どんなに構えていても気がついたら眠っている、そんなことを今日だけで何度繰り返したかわからない。覚えてもいられない。しかし、勇作がそこから戻ってくるのを金の瞳の彼はじっとそこで待っている。何度でも。何時いつまでも。
「傍にいてくださったのですね」
 勇作が力なく伸ばした腕に黒猫が影のように纏わり、さらさらの毛並みの背中を、額を、鼻先を、ぴんと立てた尻尾を、手のひらの上に滑らせる。もう撫でる力も残っていないこの手にも、まだ与えることのできるもの、受け取ることのできるものがある――そのことが病み衰えた身体をにわかに元気づけたが、その相手をひとり残して逝くことを考えると、勇作の胸は悲痛に張り裂けそうだった。
「これだけ眠ってまだ眠いなんて、……ふふ、おかしいですよね」
 強がりにもならないことが、きっとわかってしまうのだろう。それまで黙って撫でられていた黒猫はふいとそっぽを向くと、いちばん高い瓦礫の山を軽々と駆け上がり、その頂に座り込んだ。耳だけが勇作の方を向いていた。気高く、しかしどこか哀愁漂うその姿に、勇作は思わず目を細めた。まだ出会ったばかりの頃、彼がよくそうしていたことを思い出したからだった。
 彼はある意味わかりやすい一方で、実際のところ謎の多い猫だった。いつからどうして外にいて、何を食べて生きているのか、勇作は何も知らなかった。旧世紀の備蓄品を求めて都市跡から都市跡へ渡り歩く勇作が、そこで見つけた燃え残りの缶詰を等分しようとしたことは一度や二度ではなかったが、中身が動物性であれ植物性であれ、彼は決してわけまえにあずかろうとはせず、わけた分も勇作が完食するまで、まるで見張り石像ガーゴイルのようになってその場を動かなかった。それでいて弱る様子もない。実は機械仕掛けなのではないかと訝ってみたこともあったが、それにしては彼はあまりにもなめらかで有機的で、そして寒がりだった。凍える夜には必ず身を寄せ合って眠った。他に行く宛のない勇作の親愛を、彼はどれだけ受け取って返してくれたか知れなかった。
 そうしてふたり過ごした日々は、一日一日の重みがそれまでとは違っていた。むかし青かったという空は昼夜の別なく死の灰に曇り、傷つき冷え切った大地は何物も育まず、その上には人類が何億年かかっても償いきれないほどの罪の証が延々と列をなして、携帯清浄機を介してさえ勇作の恒常性ホメオスタシスは日ごと損なわれたが、それでもこの旅の間、勇作は初めてほんとうに生きたのである。だからこそ生との、愛するものとの別れが斯くもつらいのだ。
「あそこを出た時には、長く生きられなくてもよいと、そう思っていたんです」思い出を胸に温めながら、勇作は瓦礫の上の猫に話しかけた。「限られたパイを奪い合うようなことはもうたくさんでしたし、今日まで一度たりとも、自分の選択を後悔したことはありません。でも、……死ぬとはこんなにも悲しくて口惜しいことなのかと、今は身にしみて思います」
 聞き上手は何も言わなかった。石壁に背を預けたまま、勇作はゆっくりと上天を仰いだ。かつて教会だったらしい建物は色硝子の破片を在りし日の威容として窓枠にわずか遺すばかり、十字架も聖像画イコンもとうに朽ち、華やかな装飾が施されていたと思わしき天井も半分近く抜け落ちてしまっている。もう祈る者が誰もないのだから、救い主の再臨も二度とないのだろう。でも勇作は、自身の旅の終着点エンドマークになるこの場所のことがけっこう気に入っていた。泣いても笑っても最後なら、笑って終わろうとも思っていた。
 そのことを察したのかどうか、黒猫は再び地上に降りてきた。それから勇作の周囲を所在なげにうろついて、指を舐めたり喉を鳴らしたり、しばらくそんな風にした後で、終いにはぴったりと寄り添うように腰を下ろした。今一度、私の元を選んでくれた。万感たちまち胸に迫り、勇作は持てる力を振り絞って、その愛すべき小さな躰を抱き寄せた。頬を熱いものが伝い、もうちっとも寒くはなかった。
「ごめんなさい、ずっと一緒にいられなくて」
「馬鹿だな」
 猫が口をきいたことに、勇作は別段驚かなかった。
「死ぬくらいなら、人間なんかやめちまえばよかったんだ。殺し合って、憎み合って、絶えず誰かを蹴落として、手前てめえに言い訳しながら薄汚く生きりゃよかったんだ。そうしたら俺は地上にひとりきりのままだったし、こんな思いはしなくて済んだ」
「兄様」
「俺を呼ぶその声も、俺に注ぐその視線も。この滅びばかりの〝新世界〟を克服した俺にとっては劇物も同然だった。孤独に適応した俺の臓器はそいつを分解できない。そんな風には出来てないんだ。だからお前の寄越したものはずっと俺の中に残る。ずっとだぞ、これよりもひどいことがあると思うか」
 勇作の口許が綻んだ。言葉とは裏腹に、兄の心は相変わらず素直だったからである。せめてもの慰めにと、震える手で背中を撫ぜた。ひとつ。少し間を置いて、ふたつ。きっとまだまだ足りないと思ったが、それ以上はどうにもならなかった。砂時計の砂がすべて落ちきろうとしていることが、知るともなく知れた。
「兄様、私も兄様をずっと憶えています。我々はひとりで生きるのではないのです」
 舞台に幕を引くように瞼が閉じて、
 それがうつくしき青年のついの息吹になった。
「勇作」
 後に残るものは不朽の微笑みだけであった。黒猫の聴きたい声は既になく、見たいまなざしも既になく、彼の世界はまた静かになった。弔いの鐘も鳴らないから、おそらくは永遠に静かになった。なのに、もうどうやってもひとりだった頃には戻れそうにないのだった。

 重苦しい鈍色にびいろの雲から、ちらほらと白いものが降り始めていた。こんなにも白かったかと思わせるような雪だった。愛に冒された孤児みなしごはなきがらの膝の上に丸くなって眠り、曠前空後、そこだけが己の居場所であることを自身証明して、弟の傍を二度と離れなかった。

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