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ひとがたの無垢

「そんなもん、別に信じられなくったって構わねえけど」
 名簿にある君の経歴はどこまで真実なのか、という教師の含み有りげな問いを、ユーリスは鼻で笑った。
 地下《アビス》の深い闇の中、互いに持ち寄った手燭の灯が、机の上でちろちろと燃えている。灰狼の学級ヴォルフクラッセの教室は少し奥まったところにあるから、予め人払いさえしておけば立ち聞きされる心配は少ないのは幸いだ。もっとも、ユーリスとしては誰かに聞かれて困るような話をここでするつもりはない。
「なあ、先生」呼びかけて、後ろ手に指を組む。「俺にそれを訊いてどうしようってんだ。 仮に嘘がちっとばかし混じってたとして、それで一教師のあんたに何の不利益がある」
 軽い牽制のつもりで述べた言葉に、相手は静かにかぶりを振った。
「特に、何も」
「はあ?」
「だから、特に何も」
 ユーリスは額を叩かずにはおれなかった。ベレトという人物は表情の変化にきわめて乏しく、また良くも悪くも常識はずれであるため、その意図を汲むことは人間通を自称するユーリスにも決して容易ではない。これまでに彼が夜に昼をなして相手取ってきた者たちも難物という点では同じだが、内実はこの男とは似ても似つかない。まるで別の生き物であった。
 こちらの反応から説明の必要を感じたのだろう、ベレトは先の返答に付け足して言った。
「ただ、君のことをもっと知りたいと思った。探るようなことを言って君の気を悪くしたなら、すまない。他意はない」
 とどめのこの言葉はユーリスを呆然とさせるには充分すぎるものであった。要するに、ベレトの問いに含むところなど最初から何もなく、それはただ迂闊で、どこか間が抜けていて、上に馬鹿のつくような正直から発せられた、なんとも素朴な疑問に過ぎなかったのだ。
「あー……なんだ、言いてえことはいろいろあるんだが、」
 言いながら、ユーリスはすっかり拍子抜けしていた。てっきり何か取引を持ちかけられるものとばかり思って構えていたのである。
「そもそもだな、俺があんたに本当のことを教える保証がどこにあんだよ。『嘘ついてません』、それだって嘘かもしれねえんだぜ。わかってんのかよ?」
「それもそうだな」
「……まあ、疑わしいと思うなら、だ。そいつは手前《てめえ》自身で確かめりゃいい」
 これだけ振り回されたのでは、少しくらいやり返さないと気が済まない。ほんの悪戯心から、ユーリスは向かい立つベレトにくるりと背中を向けて、直後、振り返って大きく一歩を踏み込んだ。露骨な不意打ちだが、この状況、そして相手は教師である。さすがに教え子を迎撃することはない、というユーリスの読みは正しかった。鼻先同士が触れ合うほどの距離までを一気に詰めて、上目遣いにベレトを見上げる。
 それは確かにちょっとした意趣返しでもあったが、虚実ないまぜに生きてきて、また自分自身でも把握していないことの多いユーリスにとって、生まれ持った美しい顔、それだけが他者へ容易に差し出すことができる唯一絶対の真実なのだった。だから、こうすることは何も間違っていない。
「どうだ。どこをどう見たって、二十《はたち》の美少年サマだろうが」
 そう言って舌先でわざとらしく上唇を湿してみせると、さすがに刺激が強かったのか、すぐそこにある教師の顔はわかりやすく当惑を示した。この人物をセンセイと仰ぐようになってはや数節、およそ初めて見るその表情に気をよくして、ユーリスは思わず眦を下げる。
(なあんだ、あんたもやっぱり人間なんじゃねえか)
 失望かそれとも安堵か、その実判然としない感情のもと、鼻からふっと息をついたところで、思いがけずベレトの薄い唇が開いた。距離が距離なこともあり、吐息が膚に触れてくる。その表情は無に返っていた。
「ユーリス」
 妙に畏まった声色に、射抜くような蒼の双眸。それに作り笑いで応じようとして、ユーリスは己の口許が引き攣っていることに気がついた。目の前の瞳はさながら凪いだ海、あるいは底知れぬ井戸のよう、この期に及んで何の慾も映しておらず、そのさまが今はかえって魔性を感じさせている。
「……なんだよ」
 こちらから仕掛けた手前、目を逸らすことなどできようもない。ユーリスは一歩たりとも退かずベレトを見つめ返したが、それは強がりだと自分でも承知していた。一体何を言わんとしているのか。それを考えてみたところで、ちっともわかりそうにない。めぐる思惟に出口のようなものはなく、そのうちにどこか甘美にも思える怖気が背筋を駆け上がってくる。未知なるものは恐ろしいが、しかし同時に尽きぬ興味の対象でもあるのだ。
 ユーリスは期待を余裕で押し隠し、ベレトの続く言葉を待った。それを確かめないうちは、どうあっても退くことはできないのだった。

 そんな教え子の気を知ってか知らずか、かつて"灰色の悪魔"と呼ばれたこともある元傭兵の教師は曖昧に微笑むと、永遠とも一瞬ともつかぬ間を置いて、それから遂に次の言葉を発した。
「これでは近すぎて何もわからない」

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