メイド・イン・ヘヴン
よく晴れて見通しの良い、限りなく無風に近い夜だった。月や星の明るさも今宵は完全なる味方と考えてよく、狙撃には絶好の条件が揃っている。"狩る側"が有利すぎるな、と憐れむでもなく尾形は思う。標的までの距離はおよそ一キロ半。視界の十字線は、獲物を乗せて湖の上を旋回するヘリを既にその中央に捉えていた。
追手という追手を出し抜いて、まんまと逃げおおせるに成功したその人物は、きっと今頃左扇の高笑い、油断の絶頂にいることだろう。まさか空に手が届くわけもないのだから。だが、と狙撃手は当然の帰結を述べる。
(そのひとり勝ちの幻想を、今からブチ壊しにするのが俺だ)
もう間もなく現在になる未来のビジョンを脳裏に描き、尾形はちろと唇を舐めた。スカートの中に穿かされたパニエなるものが伏臥に多少つっかえていたが、観測手なしの長距離狙撃を当たり前にこなす手練の尾形にとっては、もとより服装などは大した問題ではない。たとえそれがメイド服だとしてもである。というか、ここまで来るともはや脱ぎ捨てる方が遥かに手間だった。任務だから仕方なく着ているけれども、尾形自身、何枚着込まされたか覚えていない。
刻が迫る。尾形は息をとめて引き金を絞った。狙撃手がくれてやるのはもちろん、慈悲などではありえない。
(あばよ)
撃発。放たれた弾丸が轟音と共に空を裂き、狙いに寸分違わずヘリの尾翼を撃ち抜いた。暗やみにパッと小さな炎がひらめいて、根元から吹き飛んだローターブレードが、その慣性のままに儚く宙を舞う。バランスを失った機体はメリーゴーランドのようにぐるり回転、やがては錐揉みとなり、フロム・ヘヴン・トゥ・ヘル、すなわち墜落していった。
これでいい。尾形はヘッドドレスを一旦外してから前髪をきちっと撫でつけて、それをまた元のように身につけた。殺すなとの注文通り、湖面に接触するまでには十分すぎるほどの時間を残したから、後のことは依頼主がどうにでもするはずだった。耳障りな飛翔音が未だ鼓膜に残る中、装備を回収した仕事人は素早く身を翻し、無駄に長い衣裾を中のフリルごと引っ掴むと、夜の闇を麓に向かって駆け出した。
首尾よく逃亡者を生け捕りにした依頼主は、コードネーム“山猫”の華麗なる仕事ぶりに大いに感激したらしかった。成功報酬に加えて臨時ボーナスも出すと言い、契約を延長したい、なんなら終身雇用でも、というような話まで出たが、尾形はそのラブコールのような申し出を受けなかった。相当の好事家とはいえ金払いはむしろ良い方だし、制服が気に食わないとかいうのでもない。なら、どうして? 話は至極簡単である。山猫は人に慣れないからだ――飼い慣らすことなど、どこの誰にもできやしない。
なお、要らないと再三断ったが、せっかくあつらえたのだから役立てて欲しい、と先方はメイド服一式もつけてよこした。
(何に役立てるんだよ)
帰途じゅう大真面目に考え続けた結果、幸いにして妙案を思いついた尾形であった。
◇
唇に柔らかいものが触れて、それまで眠りの淵にあった勇作は、待ち焦がれていたその感触に瞼を開く。開け放たれたフランス窓、潮風にそよぐレースのカーテン。ふっと笑う気配がする。楽園の優雅な朝、まばゆい逆光を背に負って、誰より愛しい人がそこにいた。
「兄様」
「おはようございます、勇作さん」
眼下に弟の顔を見ながら、兄はいたずらっぽく首を傾いで、それから勇作の寝癖のついた髪を手櫛で漉いた。その所作があまりに優しげで、だからこれは夢の続きなのだと思いながら、勇作は遠慮なく兄の首すじに腕を伸ばした。抱き寄せられるまま半身を起こして、真夏の凌霄花さながらに深く深く絡みつき、頬に、唇に、顎に残る縫合痕に、熱いキスの雨を降らせる。二回に一回くらいは兄からも同じものが返ってきて、そのあたたかさと少しばかりのこそばゆさに、間近に嗅ぐ整髪料のふわっと軽いサボンの香りに、勇作の胸は高鳴った。
「いつお帰りに?」
夢心地のままにうっそりと訊ねると、
「今朝方です」即答の後、兄は含み有りげに笑った。「しかし、勇作さん。少し会わないでいるうちに、随分と大胆になったものですな。こういう関係でしたかね、先日までの我々は」
「あっ、……」
「ベッドの上でこんなこと、まるでお熱い恋人同士のようではありませんか。ねえ?」
我に返った勇作は、たちまち顔に血が集まるのを感じた。留守を預かっていたこの二週間、恋しさ余って兄の夢ばかり見る羽目になっていた(それでリモートとはいえ仕事にも多少ならず支障が出た)など、夢の内容ともども恥ずかしくて本人にはとても言えないと勇作は思っていたのだが、こうなっては既に後の祭りだった。
「そんなに待ち遠しかったですか」
耳元で熱っぽく囁かれて、勇作はいよいよ真っ赤になった。絡めていた腕を解き、俯き加減に口を噤んだ。初心をからかわれている。そう思うと恥ずかしい以上に悔しい気持ちもあって、勇作は首肯を躊躇った。催促のように白手袋の指が頬を撫でさすったが、意地を張って黙っていた。というのも、言葉通り寝ても覚めても兄を想っている勇作が、今この時だって燃え咲くような恋をしている勇作が、まさか「いいえ」などと答えるわけがないのだし、それがわからない兄ではないはずなのである。だから実際のところ勇作は拗ねていた。ひとつは、こんな時でさえ兄が余裕綽々であることに対して。もうひとつは、二週間何の連絡もなかったことに対して。
やがて指は首すじを伝って喉笛、そして鎖骨の窪みを降りてゆき、さらにその下、勇作の寝間着のいちばん上のボタンで止まった。兄の珍しい服装が勇作の目に留まったのは、ようやくその時のことだった。ぱりっと糊の効いた漆黒のドレスシャツ。その胸元に、なめらかな光沢を持つ天鵞絨の緋いリボンタイが結んである。襟には銀糸で蔓薔薇の刺繍が施され、その上品かつクラシカルな雰囲気が、少し古風な兄のかんばせを一段と格調高いものに見せていた。
しかし、勇作はそこでなんとなく違和感をおぼえた。訝りながら下に視線を移すと、その予感は的中する。先にドレスシャツだと思ったものは実際には襟付きのロングワンピースで、腰には清潔な白のリネン――フリルをたっぷりとあしらった愛らしいデザインの前掛けが巻かれている。中に何か着込んでいるのかスカート部はふんわり形よく整って、裾からはやはり連綿とフリルが覗いている。思わず二度見したが、間違いなくスカートである。そして暴力的なまでのフリルである。そのすべてが上等な布地だ。何か重いなと思ったのは、兄の他にそれら生地の折り重なったのまでが勇作の膝の上に載っているからであり、先程からしきりに衣擦れの音がしていたのも、これを見ればなるほど納得だった。
兄の姿をしげしげと眺めて、勇作は逡巡した。このファッションは確か、ゴシック、ロリータ、いや――。
「メイドさん……?」気づけば、思考が口を突いて出ていた。
「左様でございます、"御主人様"」
面食らった勇作がぼんやりしていると、兄の身体がいきなり覆いかぶさってきた。不意を打たれて、勇作は瞬く間にメイド姿の兄に組み敷かれた。薄い唇に刷かれた獰猛な笑み、そして満足げに細まる黒水晶の双眸。どういう事情かはわからないまでも、強かな捕食者の兄が形だけメイドに扮しているという倒錯した事実に、勇作は途方もなく甘い目眩をおぼえた。
兄は勇作が"ひとりで遊んだ"事実を看破するかのように、寝間着越しに胸の蕾を苛めてひとしきり反応を愉しんだ後、愈々ボタンを外していった。が、それもふたつみっつで、どうにも後が続かない。白手袋のさりさりという感じが膚の上にもどかしいばかりである。自身の鳩胸がぎこちなく上下するのを視界の端に捉えながら、勇作はまったくお預けを食った気分でいた。訴えるように兄を見る。妖艶魔性のメイドが、したり顔で勇作に微笑む。
「この服、仕事でもらい受けましてね。おもしろいでしょう」
勇作は逸る気持ちを悟られぬよう、心持ち息を抑えて質問した。
「今回も、映画の撮影ですか?」
「そんなところです」
兄は世界中を飛び回る名うてのスタント俳優だといい、地上の楽園のようなこの島に若くして別荘を所有することからもそのプロフェッショナル具合が窺えるのだが、仕事に関しては徹底した秘密主義で、ロケ先、出演作、共演者、勇作は毎度そのいずれも教えてもらったことがない。直接訊ねてみても「あなたの口から心臓が飛び出しては困るから」等と毎回はぐらかされてしまう。
だから勇作は不必要な詮索はしないのだが、心配なものは心配だし、派手なアクションが売りのクライム・サスペンスやなんかをこっそり観ては、クレジットに兄の名を探してみることだけは今もやめられないでいる。名前が見つかる可能性は限りなく低いだろうし、第一に本名で出ているとも限らない。それでも探さずにはおれないのだ――兄の顎に残る左右対称の古傷が、ほんとうに命懸けの仕事であることを雄弁に物語っているからである。いつか本当のことを話してくれたら、と勇作は思う。
「使用人に紛れたスパイを中から炙り出せってんで、これを着せられましてね。終いにはヘリごと撃ち落としてやったんですが、着替える暇がなかったのでそのままでした。しかし、趣味のいい野郎もいたもんだ。髭面の男を給仕に仕立てるために、わざわざ全身オーダーメイドですからね。メイドなだけに、ってか。さすがの俺もこれには参りましたよ」
「……あの、映画の話ですよね?」
「ええ」
即答のあと、身を起こした兄は解れた前髪を後ろに二、三度撫でつけて、どこから取り出したのか、衣装と揃いの清楚可憐な頭飾りをそこに戴いた。それがまた似合うので、これを作った人が兄のためのデザインに心を砕いたことは疑いようがないと勇作は思った。その上でちょっとやきもちを妬いた。
「まあ、こうしてせっかくメイドとやらになったわけですから。生殺しのまま留守番をさせた埋め合わせも兼ねて、あなたにご奉仕差し上げようと思いましてね。……どうです、御主人様。その気になってくれましたかね」
途端、兄がぐっと腰を沈ませ、ふたりの臍の下がフリルの海底で触れ合った。既に兆していたそこに圧と揺さぶりをかけられ、勇作は思わず身を捩った。二週間分の灰の中から甦った埋み火が裡を焦がし、期待に熟れきった息が鼻を抜けた。
「"こちらの方"はよろしいようですけどね」
「……っ」
随分な言い方ではあるが、兄のものもまたスカートの中ですっかり張り詰めていることは、勇作には布越しであってもそれこそ手に取るようにわかるのだった。その切実ぶりときたら、涼しい顔をして一方的に焦らしていたのではなく、いっそ気の毒なほどにも自分を追い込んでいたに相違なかった。
勇作は兄の目をじっと見る。本心を語らず、逡巡と後ろめたさを幾重もの布地の奥に隠して、不実な男を演じてばかりいる兄の目を。
「兄様は意地悪です」
「そう。あなたの言う通り、俺は意地悪だ」
得意げとも捨て鉢ともつかぬ声音で言って、兄は小さく鼻を鳴らした。
「急な仕事とはいえ行き先も期間も告げず、結果あなたを二週間も放っておいた。だから、今日だけはあなたの言うことをなんでも聞いて差し上げます。だって俺はとびきり優秀なメイドで、勇作さん、あなたは俺のたったひとりの御主人様ですからね。いいですか、なんでも命じてくれて構いませんよ。……わかりましたか?」
「はい」兄の念押しには、いつも一言あればいい。
「それで、俺にどうしてほしいんです」
「なんでもよろしいのですね?」
「二言はありません」
「それなら、」
謝れない兄が欲しがっているのは、“主”からの断罪だ。
だから勇作は躊躇なく切り出した。
「お水を一杯、注いでくださいませんか」
言って、サイドチェストの上にある銀の水差しとグラスを目で示す。それは勇作が目覚める前に、予めそこに用意されていたものだった。
「……」
眼前の白い額に、前髪の一房がはらりと落ちる。
「留守番のご褒美を頂くのに、寝起きの口では忍びないですから」
いつも慎重すぎるくらいも慎重で、用意周到な兄である。これがここにあるということは、この展開だって可能性の内に入っているはずだと勇作は信じた。いつになく完璧に装われたポーカーフェイスから答えを得ることはほとんど不可能だったが、兄はふいと視線を外すなりグラスの半ば程まで水を注ぎ、羽根枕に沈んだままでいた勇作を今一度抱き起こした。玻璃のまるい縁が、そっと唇にあてがわれる。その時、こちらを上目遣いに窺う双眸の奥の奥に、勇作は確かに懺悔のいろを見た。
「嘘つきの“化けの皮”を剥ぐ、またとないチャンスなのに?」
そのための厚着だ、とおどけて淑女のごとく衣裾を摘んでみせる兄に、
「私もきっと意地悪なのです」
と、勇作は丹念にゆすいだその口で言って、這入ってくる舌を歓待でもって出迎えた。遠く海を渡ってくる風も、火照った膚を冷ますには足りない。くだけ波のたわむれの後にはふたり抱き合って睦み合い、そして離ればなれの間ずっと夢に見ていたように、やがてはおあつらえの愛に全身全霊で浴した。