ロースコアゲーム
手洗い場から戻ってきた兄が、元のように隣に座った。ソファの中材がふたり分の荷重にやわく沈み込む。テレビが映している野球中継はこれから七回に差し掛かろうというところで、両軍のスコアボードには同じ数字ばかりが延々と並んでいる。いわゆる投手戦というやつなのだが、それは双方の打線がわずかな好機を逸し続けた結果でもある。バットはボールに当たらないか、当たっても芯を食わず、快音はどこにも響かない。言ってしまえばここまではやや退屈な展開で、一緒に観ている兄も先程からあくびを噛み殺すなどしているくらいだった。
さあラッキーセブンの攻防、と息巻く実況の声をぼうっと聴きながら、勇作はちらと兄を見た。兄もまた勇作を見ていた。それは一瞬の邂逅だったが、こうして時折、示し合わせるでもなしに兄とまなざしの通うことが、ひとりっ子育ちの勇作には嬉しかった。弟というものになっておよそ半年、照れくささはまだ完全にはなくなっていないが、勇作はもうすっかり兄のことが好きだった。もしかしたらご迷惑かもとは思いつつ、弟という立場に甘えて週末ごと部屋にお邪魔するくらいには。
「喧嘩をしましょう、勇作さん」その兄がおもむろに言った。
「え、あの……」
「暇でしょう。どうせ下位打線だ、点なんか入りやしませんよ」
突然の申し出に、勇作はただ当惑した。普段から言葉少なで、表情の変化に乏しく、冗談を言う時も照れ隠しの時も大抵は真顔の兄である。その真意を読み解くのは勇作にはいつも難しい。
室温が設定温度を上回り、据え付けのクーラーが不意に息を吹き返して唸る。空気が動いても硬直したままの勇作に、兄は淀みなく言った。
「以前、あなたは俺を愛していると言いましたね。今まで出来なかった分、ふたりで兄弟らしいことをたくさんしたい、とも」
「ええ」
「では喧嘩をしましょう。兄弟喧嘩です」
「えっと、……どうしてそうなるのでしょう」
「してみたくはありませんか」
「今のところは、する理由がないと思います」
「俺を愛していると言ったではないですか」
父譲りの大きな目に頭ひとつ下から射抜かれて、その詰問めいた圧に少しばかりたじろぎながらも、勇作は退かずに兄を見つめ返した。からかわれているのだろうか、それとも何か不満なことがあるのだろうか。そう思って瞳の奥を覗いてみても自分の顔がそこに映り込むばかり、兄の言葉の裏はわからない。
それにしても距離が近い。色白の兄の鼻下に落ちる影の優美に、勇作は思わず息を呑む。目元の印象から父そっくりにも思える兄だが、こうして間近に見るとそこには勇作の知らない面影が確かに存在していて、例えば高く通った鼻筋、抜けるような白い膚に、なめらかな顎の輪郭、そして怜悧な感じのする薄い唇など、細部に宿るそれと日常の中で不意に出会うたび、自分たちが異母兄弟だという純然たる事実を手触りに感じるかのようで、勇作はどきりとするのだった。既に亡くなっているという母君も、やはり美しい人であったろうと思われた。
何にしても、愛しているのは本当なのだ。しんじつ兄を愛しているのだ。思いながら、勇作は手持ち無沙汰に額を拭った――だからこそ、その台詞を楯にされると弱い。
「もちろん、私は兄様をお慕いしております」勇作はなるべく慎重に言葉を選んだ。「ですが、いや、ですから、まずはお互いよく話し合いましょう。喧嘩はそれからでも遅くありません。しないで済むのなら、」
「それは父上の受け売りですか」遮るように兄が言った。
「え? いえ、」
思わぬ切り返しにまごついた瞬間、決して見逃さぬとばかり、兄はその目をするどく細めた。
「大方、喧嘩はいけないと繰り返し言われてきたのでしょう。あなたはいつも俺より父上のお言いつけを優先なさいますな。門限にしてもそうだ」
「それは……」
「ほら、今日も間もなく帰ってしまわれるのでしょう。俺ひとり置いて、俺より大事な父上のもとに」
形の良い鼻先で促されるまま、勇作は時計の方を見た。時が経つのは早い。兄の言う通り、もうすぐ暇の時間というところだった。視線を元に戻せば、吸い込まれそうに黒い目が勇作をじっと見ている。無言の内に勇作を射止めている。人生でこれほども真っ直ぐに見つめられたことが、未だかつてあったろうか。
そう思ったその時、ひとつの理解が電撃めいて勇作の脊を走った。兄はこの一見不可思議な問答によって、自分を引き留めようとしているのだ。あの兄が、いつも何の気なしに見える兄が、ふたりの別れをはっきりと惜しんでくれている――思ってもみなかった寂しさの発露に、勇作はいたく胸を打たれた。
しかし、そうであればなおさら父との約束を反故にするわけにはいかない。厳格な父は勇作と異母兄との交流をあまり快くは思っていない様子で、兄と会う自由はさまざまの制約と引き換えだった。少々早すぎる門限もそのひとつである。
「申し訳ありません、兄様」
どうか悲しまないで。感極まって、勇作は思いがけず兄の背に腕を回した。抵抗はなかった。ぎゅっと抱きしめると、兄の匂いを程近くに感じた。気品ある甘さは、石鹸と整髪料と、ほんの少しの汗の匂い。
「私も別れは惜しいのです。ですが約束を守らず、ここへ来るのを禁止されてしまったら、私は兄様にお会いできなくなる。それは何よりつらいことです。……また来ます。また来ますから」
「そうですか」腕の中の兄の返事は意外にもあっさりとしたものだった。「わかりました。喧嘩は一旦終いにしましょう」
「はい」
一旦、という言葉に何か引っかかるものを感じながら、勇作は名残惜しくも身を引こうとした。が、それを制するように兄の手が肩にかかる。
「先程はああ言いましたが、今日は門限の心配はありませんよ。何時までもいてくださって結構です。あの唐変木の水差し野郎には俺の方から予め連絡してありますので」
「えっ」
唐変木の水差し野郎。そのあんまりな言い方に驚いて兄の方を見遣った勇作だったが、距離が近すぎてその表情は視界に入らない。
「しかし、電話口とはいえ凄まじい剣幕でした」そう言う声音は珍しく愉しげだった。「ははッ、あの怒り様からすると、花沢家における門限破りとは大した罪であるらしい。何故でしょうな。俺にはわかりませんが、成人してまであんなものに付き合っておられるあなたには心底同情します。……どうです、清々しませんか? 勇作さん」
今度は兄の方が勇作を抱き寄せる。何気ない兄弟の抱擁、というには服越しに背を這い下りる指がいやに艶めかしいのに気がついて、勇作は己の置かれた状況に目眩を覚えた。みるみる汗ばんでいくシャツは境界線としてはあまりに心許なく、かえって互いの隙間を埋めるようですらある。
いけない、こんなつもりでは、と理性が警鐘を鳴らす傍らにも、そのことによって胸の騒ぐ自分自身を見つけてしまう。自覚するほどに頬は燃え、鼓動もいよいよもって早い。そういう〝愛している〟ではなかったはずなのに、ずっとこうしたかったのかもしれないという考えを、勇作はもはや振り払うことができずにいた。兄の静かなる情熱は、あっという間に勇作を虜にしてしまった。
あるいは、父はこの状況を危惧していたのだろうか。
「あの……兄様」苦し紛れに勇作は言った。
「なんです」
「父上に何と仰ったんでしょう」
「聞きたいですか」
「ええ」
「本当に?」
「……はい」
「では、耳を貸してください」
兄より立端のある勇作は、要求に従って心ゆかしく首を傾いだ。途端、耳裏に当たる硬質な感触。喰まれたと理解した時には、もう何もかもが遅かった。捕食の甘さに腰骨の奥深くがぞくりと震えて、あっ、と堪えきれず漏れ出た声の思いがけない切なさに、勇作は烈しい背徳感をおぼえた。自身火になったかと錯覚するほどに、頬が、躰の芯が熱かった。撥ね退けようとは、思わなかった。
「朝まで帰しません」
離れ際の台詞が脳を揺すった直後、テレビからのワッという歓声が、勇作を一時ながら現実に引き戻した。いつの間にやら二塁まで到達していた走者が、後続のヒットから決死の生還を試みたらしい。放たれた矢のような返球がそれを追いかけ、追い越し、翻るミット、そして巻き上がる土埃。きわどいクロスプレーに球場がどよめく。実況解説の息を呑む中、アンパイアのコールは――アウト、スリーアウト、チェンジ――結局七回表も誰ひとり本塁を陥れることなく、悲喜のさまざま入り交じる中、スコアボードにはまたもゼロが刻まれる。せめて一点あればいいのに、お互いにその一点が近くて遠い。しかし勇作は思う。この膠着は、きっといつまでもは続かない。
予感を現実のものにするかのごとく、シャツを潜ってするりと掌が入ってくる。それは吸い付くように素膚に馴染んで、勇作はテレビを消してしまいたい衝動に駆られた。だが背を撫で上げる手が止まることはない。その動きは優しく宥めるようでもあり、それでいて淫らに誘うようでも、どこか遠慮がちに探るようでもあって、勇作はただ幻惑されるばかりだった。
「あの人にそう申し上げたのは事実ですが、」低く、沈むような声で兄が囁く。「勇作さんがどうしてもと言うのなら、これ以上、引き留めはしません」
「兄様、」
「……別に、怒っていいんですよ。何なら突き放してくれても。こんなことは兄弟らしくない、それは当の俺でさえ思っていることですから」
いかないで、と言うような直球勝負を兄は好まない。いとも巧妙に芯を外す言葉、含みありげな吐息のかかる耳に、やがて『私を野球に連れてって』のイントロが、観客の大合唱が聴こえてくる。勇作は自分を求めるひとの肩口に顔を埋めて、〝I don't care if I never get back〟、もう帰れなくても構わない、その節を心に擦り切れるほども繰り返した。