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不滅のエフェメラ

 それは或る晴れた日の朝のことだった。
「兄様、兄様、来てください」
 花が咲いたんです、と何やらいたく感慨深げな声の方に顔を向けると、サッシのガラスに勇作がぴったり貼り付いている。多少面食らった尾形は、習慣のコーヒーを片手にその興奮顔をぼんやりと仰ぎ見た。
「……ああ、あなたがここへ越してくる時に持ってきたあれですか」
「そうです」
 秋の終わり、勇作がさも大切そうに小脇に抱えてきた素焼きの鉢を、尾形はよく覚えていた。このところ特に甲斐甲斐しく世話を焼いていたようだが、手製の棚まで用意して一体何を育てているのか、尾形は当人に訊いてみたことがなかった。興味がなかったわけではない。時が来れば自ずと素性が知れるだろうと思っていた。植物とはそういうものであり、斯くして事は尾形の予想の通りになった。とはいえ、実や葉でなく花を期待されているあたり、それはどうやら家庭菜園的なものではなかったらしい。
 招かれるまま尾形がベランダに出ていくと、欄干に雪や霜の溶け残る殺風景の中に、一輪、ひときわ目立つ黄色の花が咲いていた。
「福寿草」
 思わず口を突いて出た言葉に、勇作の表情がパッと何ルクスも明るくなる。
「はい。じっくり種から育てましたから、四年かかりました。それだけに感動もひとしおで、是非、この可憐さを兄様にもご覧いただきたいと……」
「ははあ、随分長い付き合いですな。毎度のことながら、あなたの辛抱強さには呆れます」
「ふふ、褒め言葉と受け取っておきますね」
「しかし、見ればせっかくの花にもう"虫がついている"ではないですか」近づいて鉢の前にしゃがみ込むと、花の中央に我が物顔で陣取っている小さな虻の姿がよく見えた。目が合う。向こうは複眼である。何を考えているかはわからない。「あなたの花でしょう。よろしいので?」
「ああ、確かに、先を越されてしまったと言えば、そうかもしれませんね」勇作は照れくさそうに項を掻いた。「でも、いいんです。きっと彼もこの花の咲く時を心待ちにしていたのでしょう。私と一緒か、あるいはそれ以上に」
 尾形は何の考えも読めない複眼を改めて覗き込んだ。羽虫は花の上からじっと動かず、飛び立とうという気配もない。
「咲いたそばから目ざとい奴だ。冬の間、よほど食うに困ってたのか」
「それが、福寿草に蜜はないんだそうですよ」
「ならどうしてこいつはここに居座るんです」
「その理由、兄様はどう思われます?」
 隣に屈んだ勇作をちらと見ると、福の神のごとくニコニコ笑っている。あまりの思わせぶりに顔をしかめそうになって、尾形はごまかしついでに言葉を探した。
「謎掛けは好みませんので」
「ヒントを出しましょうか」
「結構です」
 尾形がそれを言い終わらないうちから、勇作の身体がそっと凭れかかってきていた。父に似た癖毛がふんわり擦れて、尾形にとっては馴染みの香りが鼻をかすめる。もはや当たり前に同じ洗髪剤を使っていたが、それでも勇作から勇作の匂いがなくなるわけではなかった。シダーウッドの清涼感が通り抜けた後にそれはある。どこか懐かしい、ひだまりの匂い。
「あの、どうでしょう、兄様。個人的には大ヒントだと思うのですが」
「……まったく、あなたのヒントはどこがヒントなんだか。蜜はないとか言っておいて、ちょっと俺に甘すぎやしませんか」
 そう言って、尾形はおもむろに勇作の唇を浚った。今のように短いのからもっとずっと長いのまで、こんなことはもう何度目だったか知れなかった。“福告ぐ草”に蜜はなくても毒はある。それも相当に強い毒が。全身に回ってしまえば、とうてい助かりはしないだろう。そんな風に思いながら、しかし尾形はとっくに手遅れと思しき今の自分が嫌ではなかった。
 まだ冬のするどさを残した風が吹いて、金のすり鉢――この形状で太陽の光を効率よく集めているらしい――が揺れても、虻は決してそこを離れようとはしない。尾形と同じで、ひだまりの中がいちばん暖かいと知っているのだ。
「答えが出ている以上、それは証明と言うんですよ」
 長く厳しい冬を雪の下で耐え忍び、誰より先に春を見つけて、ぬくもりを分け与える健気な花。摘まずにおけば、来年も、再来年も、そのまた次の年も、俺の傍で咲くだろうか。
 それはもはや問うまでもないことだと、外さない男は傍らの人の肩を抱き寄せる。三月でも外はまだまだ肌寒かったが、兄のその綻んでやまない口元が、雪融けの時を勇作にも確かに告げていた。

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