光捧げしものたち
術式の終いに己の名を書き入れて、尾形は額の汗を拭った。嵐が来れば吹き飛ぶようなあばら家でも、これだけ多くの古代文字を書き込まれたら立派なものだった。床、壁、天井まで、びっしり刻んだ。隙間なく。今にこの部屋そのものが禁術を駆動する装置となるだろう。もうじきだと思うと、さすがの外道魔術師も口許の綻びを禁じ得ない――だってこれから、悪魔を喚ぶのだ。
欠けた術式を補うため、西洋魔術と東洋魔術の垣根を越えて、ありとあらゆる手を尽くした。が、その骨折りも間もなく報われる。尾形は陣の中央に入って、小刀の刃をぐっと握り込む。悪魔召喚の儀において同族の血が言葉通りの強力な呼び水になることは、魔術師の間でも殆ど知られていない。まずギルドの禁を破ってまで儀を執り行おうとする者が稀だし、通常、悪魔を喚ぶ前に悪魔の血が手に入ることはないからだ。だが、幸か不幸かこの尾形百之助には"それ"がある。半分悪魔の子として生まれたのも、今日この日のためだと思えば悪い気はしなかった。
緋に染まった手のひらを発火の刻印の上に衝いた途端、呼応するように術式が発光し始める。よほど味が気に入ったか、あるいは単に餓えているのか、刻印はそれ自体生き物のように、貪欲なまでに尾形の忌まわしき血を欲した。だから尾形は笑って、今しがた作ったばかりの傷口を強く、強く押し当てる――いくらでも、好きに使えばいい。
(それで世界が終わるなら)
既に廻り出している運命の輪は、そこに留まるということを知らない。尾形から流れ出る魔力をたっぷり吸って、やがて部屋中の古代文字がおぼろな光を帯び始めた。ただならぬ事が起きようとしている。蝋燭の灯は自ずから消え、床も梁も窓硝子も悪寒に震えるごとくガタガタ鳴った。光はどんどん強くなった。いよいよだ。そう思った時、術式から溢れ出た魔力が勢いよく燃え上がり、花火、あるいは彗星のように天井までを駈け上がった。その金の炎は意志とも言うべき指向性を持って四方八方に伸び、先ほど刻んだ術者の名、すなわちHYAKUNOSUKEという文字のいくつかを己の色に塗り替えてゆく。まるで霊応盤だ。尾形は迸るようなその動きを夢中で追った。Y、A、K、U、S、U……。
(『約す』? 何をだ?)
「あなたが私を喚ばれたのですか」
ひゅ、と尾形の喉が鳴ったのと、目の前で光が弾け飛んだのとはほとんど同時のことだった。窓という窓はしっかり目張りされ、出入り口には内側から施錠の術を幾重にも掛けてある。ゆえに己以外の誰かがこの空間にいるとすれば、それは召喚の成果に相違なかった。悪魔。歓迎されざるもの。既に背後を取られているとあっては、焦っても仕方がない。夜更けなりの暗さに目が慣れるのを待ってから、尾形は表向き冷静を装って振り返り、生まれて初めて"本物の悪魔"というものを見た。そうして、思わず息を呑んだ。
そこにいたのは恐ろしいほど顔貌の整った青年だった。造作のよさに加えて堂々たる体躯を持ち、複雑な文様の入った青藍の外套をはじめとして被服も上等なものばかり。金色に燃える切れ長の眼、優美に巻いた冠様の角や長い尾が彼の魔性を自明にしていなかったなら、どこぞの王侯貴族とでも見紛うような瀟洒な出で立ちである。さしずめ、魔界の貴公子とでもいったところか。
しかし、どんな見た目であろうと悪魔は悪魔。奴らとの駆け引きは言葉通り命懸け、喰うか喰われるかの勝負であって、油断や慢心は許されない。大方、この悪魔だって幾人も罠にかけて取り殺してきた口だろう。尾形はここまでにだいぶ血を失っていたが、それを悟られまいと、素知らぬ顔で前髪をさっと撫でつけた。もちろん、傷のない方の手のひらで。
「俺が喚んだ」
「はじめまして、百之助さん」
刻んだ名前を既に読んでいたらしい悪魔は、外套の片翼を開いて恭しく礼をした。品よく上向いた口角から小さな牙が覗いてこそいたが、その玲瓏な声、挙措の気品たるや、この世の不浄だの凶兆だのをこれでもかと書きつけた邪悪きわまる術式から召喚されたとは到底思われない。悪魔のくせに。かつて自分に石を投げた人間たちが言っていた呪詛の言葉を喉元で押し殺し、尾形は口を斜めにした。
「貴様の名は」
「ユウサク・ハナザワと申します。どうぞ勇作とお呼びください」
「ユウサク?」反射的に訊き返したが、先の『約す』はこの名のアナグラムだったのだと尾形はその場で理解する。「知らん名だな。何の悪魔なんだ?」
「勇作は、〝弟の悪魔〟です」
「なんだそれ。……おい、あまり俺をなめるなよ。本当に名のある悪魔なのか」
「人間界に私の記録がないのは当然かと。だって初めて喚ばれましたから」
「はじめて?」
「ええ」焔と同じ色の瞳を揺らして、勇作はこくりと頷いた。「長らく、召喚の条件が揃わずにいたのです。名前、血の縁、召喚者の才覚と飽くなき研鑽……気の遠くなるような必然の偶然、その積み重ねを経て、私は今ここにおります」
ぺらぺらとよくしゃべる悪魔にすっかり馬鹿らしくなった尾形は、召喚者の威厳も何もかなぐり捨てて、単刀直入に訊いた。
「ってことは、誰とも契約したことないのか」
「はい」
尾形は脱力した。苦労して呼び出しても当の悪魔がひよっこでは、契約したところで大した見返りは期待できないからである。どうせ契約するなら前の主の二、三人は喰らっていてほしかったところだ――というまなざしを向けると、意外にも顔に出る方らしく、勇作は慌てて胸を張った。
「どうかご安心を。契約の実績こそありませんが、私も魔界ではそれなりに名の知れた一族の出です。価値あるものを頂戴できれば、私はその対価として相応の力をお渡しできます。あなたほどの魔術師なら、悪魔との契約で何が得られるかは重々おわかりでしょう。一度きりとは申しません。その後も随時、差し出された価値に見合う対価をお支払いします。……いかがですか?」
「その価値というやつの基準は?」
「取り返しがつかないこと、です」
「それでお前には何の得がある」
「悪魔としての格が上がります。我々にとって、最も重要なことです」
「わかった」妥当な提案だった。「それなら早速、最初の支払いをしようじゃないか」
人間界と魔界では大気中の魔力の組成が異なるため、境界の向こうに喚び出された悪魔は通常、長く現界していることができない。そこで依代として召喚者の臓腑が提供される。それだって何でもいいというわけではなく、悪魔にも当然好みがあるし、格に釣り合わないものを差し出した結果、プライドを傷つけられたとしてその場で八つ裂きにされた例もあると聞く。しかしそれは、人の側がこの気まぐれな存在を御すほとんど唯一のチャンスでもあるのだ。用心深い尾形はそのことを心得て、この短時間に相手をよくよく観察していた。こいつは俺の何なら折り合うだろうか、と――勇作はもっぱら尾形の目を見ていた。始終、目を見て話していた。
「こいつを片方やる」ゆえに確信を持って尾形は左目を指さした。悪魔を喚ぶと決めた時点で、このくらいの代償は覚悟の上だった。「だから、誰にも負けないための力を寄越せ。世界という盤をひっくり返して、台無しにするための力を。……俺が望むのはそれだけだ。構わんだろう? 〝弟の悪魔〟さんよ」
すると、勇作はにわかに厳しい顔になった。
「そう、ですか。それがあなたの、叶えたい願い……」
この分だと両方寄越せと言い出すかもしれない、と尾形の方は警戒しきりだったが、それも一時のこと。ふっと穏やかな表情に戻った悪魔の青年は、自らも肚を決めたように力強く頷いた。それを見て、術師は密かに安堵する。
「契約に応じましょう。そちらに膝をついて、」
言う通りにすると、勇作もまた尾形の前に傅いた。同じ高さで視線が交わる。眼前の金瞳はまるで夜中の太陽のようで、自分の左目が最後に見るものがこの光、この男だと思うと、なんだかばつが悪かった。が、それも含めて代償というならば是非もない。
「……目を、瞑ってください」
瞼を閉じる。少しの間を置いて、左右から頬を包みこまれたのがわかった。悪魔の掌は業火のように熱いのかと思いきや、白手袋越しに伝わる温度はあくまで人のそれに似ていたし、なんでお前が震えてるんだ、と言いたいのを尾形は敢えて黙っていた。自分のではない息遣いが間近に聴こえる。焚き染められた香の匂いが、妙に懐かしい。
「我、勇作は、汝、百之助と契りを結び、ここに祝福を約す。……」
直後、目玉を抉り出すにしてはやわらかに過ぎるものが左瞼にふわりと落ちて、それが悪魔からの口づけだと気づいた時には、尾形の意識はとうに深い闇の底に落ちていた。
意識を取り戻した時、尾形の視界は真っ暗だった。右目は残っているはずなのに、何も見えなかった。やっぱり両目とも欲しかったのか、悪魔のやりそうなことだ。そんな風に考えていると急に目の前が開けたので、尾形の目はすっかり眩んでしまった。勇作の掌で目隠しをされていたのだとわかったのはその少し後で、ようやく自身の置かれた状況を理解した時、尾形は上半身を抱き起こされるような形で取引相手の腕の中にいたのだった。肩口に毛布よろしく掛けられた外套からして、どうやら介抱のつもりらしい。
「よかった。初めてなので緊張しましたが、うまくできましたよ」
悪魔の囚獄から逃れるのも忘れて、尾形は絶句した。まどろみから醒めるように開かれた勇作の目の片方――左の瞳が、金色からあまりにも見覚えのある漆黒に変わっていたからである。まさか、と急に背筋が冷たくなる。すかさず右目を瞑ってみると、"視えている"。くれてやったはずの左側の視界が、ある。
察しの良い悪魔はやんわり微笑んで、胸元の隠しポケットから取り出した何かを尾形に寄越した。それは随分と小さな折りたたみ式の手鏡だったが、予想の正しさをその場で証明するには十二分だった。
「似合わんだろうが」左右で違う色になった目を瞬いて、尾形は鏡の中に毒づいた。
「え、そうでしょうか……」
「そうでしょうか、じゃねえだろ。どういう趣味だ」
「頂いたものへの正当な対価です、兄様」
「あ?」こればかりは聞き捨てならなかった。「俺はいつからあんたの兄になった」
凄む尾形の手を、ひと回り大きな勇作の手が包むように握った。驚きのあまり何も言えなかった。今まで尾形にそんな風にする者は(少なくとも人間の中には)誰もいなかったのだ。しかもいつの間にか掌の痛みが消えている。というか、傷自体がもうないらしかった。失血のために冷え切っていた身体も、今は元通りどころか妙にぽかぽかしてくる始末である。まったくもって"悪魔の所業"だ、と恨みがましく勇作を見上げると、向こうは何やら感極まった様子で鼻の頭を赤くしている。美形すぎるためにかえって険のあるように思われた顔も、こうなってしまえば形無しだった。そんじょそこらの人間だって、これほど涙もろくはないだろう。
「私は〝弟の悪魔〟ですから、私を弟たらしめている方、すなわち兄か姉からの召喚にしか応じられませんし、同様に兄か姉としか契約できないのです。……なので、いつからかと申しませば最初からかと」
「はあ? ……じゃあさっき言ってた血の縁ってのは、」
自称弟は控えめに頷いた。その顔には少年のようなはにかみがある。
「人間界に兄がいると、父から聞いたことがありました。以来ずっとお会いしたいと思っていたのですが、悪魔の召喚はとても高度な術式を必要とします。しかも、聞けば人の子の間では世界のすべてを敵に回す程の禁忌とか。それでは私の方から出向いていっても、ご迷惑にしかならないだろうと。……ですので、一度は諦めた夢でした」
「……」
尾形は自らの失態に目を覆った。父親譲りの血は間違いなく呼び水になったのだった。腹違いの弟の。しかも勇作の方はその事実を知っていながら伏せていた。あるいはこうして騙して契約させること自体が目的で、格だとか取引だとかは端からどうでもよかったのかもしれない。いいや、きっとそうだ。間違いない。悪魔め、やっぱり謀りやがって。しかしそう吐き捨てる間もなく、尾形はその猜疑心ごと勇作に抱擁されていた。胸の高鳴りが否応なく伝わってくる。契約を交わしたのだから当然といえばそうかもしれないが、それは既に他人同士の距離ではなかった。
「ありがとうございます、兄様。私を喚んでくださって、追い返さずに契約までしてくださって……。真理のよく視える、とても綺麗な墨色の眼も。ありがとうございます。思えば〝取り返しのつかないもの〟、他にいくつも頂いてしまいましたね。悪魔召喚のはじめてに、契約のはじめて……」
「いや、そんなのは別にいいだろ」
「いいえ! はじめてというのは、何事に於いても二度はありませんから。正真正銘、〝取り返しのつかないもの〟なのですよ。いずれもみな、かけがえがないのです」
傍らに侍る二色の瞳は水を湛えたように潤んで見えた。俺の眼もそこにあればそんな労りの表情をするのか、と尾形は無感情に思う。破壊と混沌こそが悪魔の本分、だから半魔の己は誰にも赦されず、また誰のことも赦さず、人と世界に仇なすことを宿命として死ぬまで生きるより他ないのだと、尾形はこれまでずっと信じてきた。実際、それによってあらゆる悪徳と不幸の辻褄を合わせることが可能だった。しかし弟を名乗るこの至純至高の悪魔には、どうやら"血も涙もある"らしい。
(なら、今まで俺のしてきたことは?)
かようにして自己の滅却が成った時、外道魔術師・尾形百之助の大いなる野望は――それこそ裡から金の火文字に灼かれるようにして――あっさりと潰えてしまったのだった。そして古い彼が完全に燃え落ちた後、灰の中から不死鳥のごとく甦った新しい彼は、もはや世界征服の動機らしいものを何も持ってはいなかった。その代わりに何か別の、彼の心の奥底で頑なに凍りついていたものが、時を得て芽を吹いていた。尾形はこの状況を説明できる言葉を探した。しかし、これはなんだとか、どういうことだとか考えを巡らせている間に、名もなき芽はあっという間に若木となって枝葉を茂らせ、無数の蕾をつけてしまった。情動の早さに、思考が追いつくことはないのだった。それはいつも遅れてしかやってこないし、来る時は言い訳のために来るのである。
「ですが、ご安心を」兄の心変わりを知らない勇作は励まして言う。「契約に基づき私と兄様のあいだの取引は常に五分五分ですし、これからはずっとお傍におりますので、追って埋め合わせをいたします。もはや何者も兄様の敵ではありません、世界もきっと思うままになりましょう。えっと……」
失礼、と虚空から取り出した羽ペンと帳面でいそいそと借りを記録し始めた勇作の耳にもしっかり届くよう、尾形は次のように囁いた。勇作の仕事ぶりがあんまり真面目で可笑しかったのもあるが、これまでの自分のすべてが間違っていたことの証明ついでに、ちょっと、試してみたくなったのだ。
「勇作さん。あなたは俺への"貸し"をひとつ見落としている」
「え?」
長い睫毛に縁取られた黒と金の双眸が、いとけなく睜かれる。不意打ちで瞼は無理か――角も邪魔だ。なら、と尾形は躊躇いなく勇作の首に腕を回すと、そのまま身を乗り出して唇を重ねた。はじめてのキスには結び目のほどけるような温さがあって、されど尾形は長居せず、ちゅ、と初々しい余韻を残して、そこを離れた。案の定追いかけてきた唇のことはやんわり指の先で押し返し、これでは五分にならないのではと戸惑う弟に、誰にも負けられなかったはずの兄はしたり顔で笑いかける。
「特別に、全部"まけて"あげますよ。釣りも結構です」
春の訪れにも、夜が明けることにも理由はない。それは約束された未来であり、今しがた彼の中で故なく咲いたものこそ、"はじめて"の愛であった。