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北緯五十度線の蝶

 ぐらりと視界が傾いて、初めて尾形は自分がよろめいたことに気がついた。来たるべき瞬間ときを待ち、引金をひくために温存していた指以外、どこもかしこも言うことを聞かなくなっていた。身体というのは、思惟しゆいに対して本来かくも重いのだ。ほとんど感覚のない足に辛うじて数歩踏み込ませた緊張の糸も、自重に耐えるほどの力はなく、それきりぷつりと切れていた。
 まだ動くはずだ。
 まだ撃てるはずだ。
 雪の中に半ば埋もれるように膝をつき、借り物の銃を支えに立ち上がろうとしながら、尾形はなおもそう思っていた。そう思わなければ立てなかった。外套もこうなってはもはやほとんど用を成さず、全身とうに冷え切って、吐く息だけが妙に熱い。
〝日露戦争延長戦〟の勝負は既に決していた。時間と手間は要したが、慎重に出た甲斐はあって、すべて尾形の狙い通りに事は運んだ。ベルダンに込められる弾は一発。狙撃手同士の戦いに必要なのも一発。回り込んだ側面から頭を撃ち抜くことはできずとも、相手方の追撃を阻止し、かつ先の戦争から続く因縁に幕を引くには、その一発があれば十二分に事足りた。即死を免れたところで、いずれ辿る結末は凍死か失血死である。何も読み違えてはいない。そのことの微かな安堵から、尾形は霜のつきかけた睫毛をゆっくりひとつ瞬いた。
 とどめは必要ない、となれば今すべきは当然、一刻も早くキロランケらと合流することだ。尾形は背に負った銃ごと自身を引き摺るようにして、朝日と木立の織りなす白黒模様の下を橇の痕跡に沿って歩き始めた。途中、案山子に使った装備と落としてきた三八式を回収したが、その頃には辛うじて保っていた指先の温度もなくなろうとしていた。あまり猶予はないと思えた。

 国境線付近の森は険しい。積雪も島南に比べて遥かに深く、針葉樹林特有の見通しの悪さが、ただでさえ過酷な雪上行を実際の距離より遠いものに感じさせる。もとより道らしい道も碌になく、まして徒歩、まして夜通し雪を口に含んだ交戦後のことであるから、場数を踏んだ軍人の尾形とて足取りの軽いはずはない。踏み出す毎にふらつきは悪化の一途を辿り、歯の根は合わず、白い呼気に視界が煙る。
 噴き出す汗も瞬時に凍てつき、愈々まずいと思い始めた頃。頭上に何か遮るものを感じて、尾形はふと顔を上げた。いつの間に現れたのか、数尺ほど先、けぶるような黎明に浮かぶ拳大の影。何かと思って見てみれば、それは一匹の蝶であった。
 尾形が思わず目を細めたのは、何も逆光の眩しさからだけではなかった。ここは冬の樺太である。まさかこんなところに蝶などいるものか。そのように訝りながら、然し尾形には己が知覚を信じるより他はないのだった。天性の狙撃手として、尾形は人の何倍もく視える目を持っている。見通し、見定め、見切りをつけて、今日に到るまで自身を生かしてきたその目が確かに捉えているのだから、眼前のこれが現実かどうかは疑うべくもない。その信頼性は当然、常識などに勝るのだ。
 但し、物事には必ず理由がある。それゆえに尾形は対象の観察を怠らない。蝶は全長にして三寸あるかないか。一面の紺青は翅の先へ向かうほど淡く、また光の加減でその色味を微妙に変化させるものらしい。夏の道内でよく見る黄揚羽きあげはなどに比べれば決して派手な装いではないが、数多の生命凍りたるこの冬森にあって、陽光を反射して青に緑に燦くその生物はひどく鮮やかで、やはり致命的なまでに場違いなものと思われた。
「……何だ」
 思わず呟いた声に応えてか、蝶はひらりと舞い上がった。一度は頭上を越えたと思うと、また戻ってきて橇跡の先へと飛んでいく。まるで先回りするような動きの不愉快に尾形はするどく舌打ちをしたが、その足は再びゆっくりと銀世界を進み始めていた。目の前の不可解を突き止めねばならないという意識、狙撃手としての執念が、尾形に少なからず道行きの気力を取り戻させたのだった。

 蝶は木々の間を縫って、時には梢に紛れながら、それでも確かな軌跡を残して飛んだ。視線はいつしか橇跡を逸れて蝶の方だけを追っている。どちらにしても同じことだ、と尾形は半ば回らなくなった頭で思った。震えは止まず、生身の重さがもはや耐え難いほどだった。が、まさかこんなところで足を止める訳にはいかない。
 奥歯のカチカチと鳴るのを自分事でなしに聴き流して、尾形はなおも歩き続けた。目的地まではそう遠くないと思われたが、何分足元が覚束ない。歩調が落ちると、どういうわけか蝶もその分ゆっくり飛ぶようだった。艶のある紺色の翅を羽ばたいて、まるで見守ってでもいるかのように、付かず離れずそこにいた。余計な世話だと尾形はその姿を都度睨めつけたが、そうするうちに、やがてはひとつの面影をそこに重ねていることを自覚した。眼裏まなうらにさらりとこぼれる黒髪、秘奥の蒼を宿した瞳。
(アシㇼパが俺の何だと言うんだ)
 思いがけず明瞭な錯覚を否定しようと、目頭を押さえてかぶりを振る。あのアイヌの少女は尾形にとってあくまで金塊の割符であり、それ以上も以下もない。網走以降の道中で杉元の真似事をしてきたのも、それが懐柔のために必要と判断したからの話で、何ら特別なことはない――そんな風に否定するだけなら容易かった。が、なぜだかその道理は用意したそばから綻びて、繕っても繕っても、決して盤石なものにはならないらしい。蝶の羽ばたきが巻き起こす風はどこへ行くわけでもなく、廻り廻って尾形の中で渦を巻くばかりなのだった。
 細く吐いた息がたなびいて、視界の端を流れてゆく。気づけば蝶は飛ぶのをやめて、ほど近い倒木の上に翅を休めていた。尾形はふと足を止めて、飛び立つ様子のないそれに注意深く狙いを定める。手を伸ばせば届く間合いだった。たかが蝶ごとき、引き金をひくまでもない。握り潰してしまえば、万事それで済む。
 尾形は音なく腕を振りかぶった。捕らえた、と思ったその瞬間。
 指をすり抜けた蝶が、雪の反射光にひらめいた。
 あまりの目映さに手庇てびさしをしたのも束の間、指のあわいから覗いた後翅にいくつか赤い斑点のあるのを見とめて、尾形は俄に膚の粟立つのを感じた。思わず数歩後ずさる。見誤ろうはずもない。そんなものは、つい今しがたまで存在していなかった。
 まともに正視できずにいるうち、どろりと熱した鉄のように、或いは沈む夕陽のようにその色が熔け落ちる。忽ちに蝶そのものが輪郭を失い、伸張拡大、やがては闇色に緋の入り混じるひとつの大きな影になって、
「兄様」
 やわらかに通る、間違いなく聞き覚えのあるその声に、思いがけず肩が跳ねた。尾形百之助をそのように呼ぶ人間は、後にも先にもひとりしかいない。そのひとりも、今はもうこの世のものではなかった。
 操り糸で牽かれでもするように、その大きな影の中、尾形はぎこちなく頭をもたげた。そうして、己をここまで導いたものの正体を知った。
「もう少しです、兄様」
 確かに死んだはずの異母弟が見慣れた紺羅紗に身を包み、尾形に向かって悪意なく微笑んでいる。眉目秀麗、成績優秀、品行方正。まるで美辞麗句が形を成したかのようなその姿は、いつか兵営で見ていたものと何も変わらない。致命傷となった銃創から赤いものを絶えず流していること以外は、何も。
「さあ、どうぞこちらへ」
 軍旗を掲げるためにあるその手が、かつての親愛と共に尾形へ差し伸べられた。無論、尾形にその手を取る択はない。悪しざまに撥ねつけてやるのすら癪だった。今すぐ消えてほしかった。消えないというなら消してやりたかった。然しどういうわけか、尾形にはそれが瞼を閉じて終いになるようなものとも思えない。
(あのロシア兵。こんなことなら、もう一発余計にくれてやればよかったか)
 そう思ったところでもう何もかもが遅い。ははッ、と乾いた笑い声を洩らして、尾形はままならぬ生身よりも重い過去、未だ断ち切れずにいる日露の遺恨の前に崩折れた。
 直に触れた雪は、思ったより冷たくもなかった。もはや寒いかどうかさえわからなかったが、人間なかなかしぶといもので、それでもまだ舌は回った。誰彼なしに、尾形は言った。
「思い出しましたよ」
 殺伐荒涼たる白と黒の世界にあって、目を灼くほどにも鮮烈な色彩。
「勇作殿。あなたの血も、流れてみれば赤かった」

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