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双つ星

 大きな手が退いた後、私の手のひらの上にはまっさら純な白い小箱がありました。新雪を思わせる天鵞絨びろうどに、目の醒めるような紺碧のリボンが十字に掛かって、綺麗な蝶々結びになっています。烟るような瓦斯ガス灯の火に照らされたそれに、私は息をするのも忘れて見入っていました。心からの贈り物だと、ひと目でわかる代物でした。
「ちゃんと給料三ヶ月分です」
 俯きがちに御髪おぐしを撫でつける兄様のその言葉は、わずかに歯切れが悪く聴こえました。滅多にないことですが、それも気のせいではないのだろうと私は思いました。
 今宵は月のない夜でしたが、居並ぶ建物は色とりどりにライトアップされて、運河の昏い水面みなもには光がいくつも揺らめいていました。幻想的な画でした。視線に促されるまま、私は小箱に掛けられたリボンを解きました。小箱を開けると、白絹の玉座の中央に、ひと粒のダイヤモンドを抱く、うつくしい銀の指輪がありました。
「つけてみても、よろしいでしょうか」緊張のため、声はかすかに震えました。
「どうぞ」
 しかしその時、私は少し戸惑いました。了承と同時に、兄様がこちらに片手を差し出しておられたからでした。はて、これはどういうことだろう。しばしの逡巡のあと、答えを探して兄様の大きな目を覗き込むと、ふいと横を向かれてしまいました。が、幸いにして私にはそれですべてわかりました――私への試練の結果を直視できないほども、この方は照れておられるのだ、と。
 それほどの重大事なのです。意を決して、私は箱の中身を取り出すと、外身の方は懐にしまいました。それから兄様のお手をそっとすくい上げ、まなざしの熱く通う中、その薬指に指輪を通しました。思ったとおり、指輪はそこにぴったりと収まりました――そうです、私の大切な兄様は、とても慎重なやり方で、私に兄様ご自身を贈ってくださったのでした。
 その事実に私は胸がいっぱいになり、まさに矢も盾もたまらずという感じで、目の前のひとを抱きしめました。もう離さないつもりで、強く、強く抱きしめました。
「兄様。ずっと、ずっと、大切にいたします」
「そうですか」
 お互い、言葉はそれだけあれば十分でした。

 少なくとも十数分はそうしていたでしょうか。具体的な数字は私にもちょっとわかりません。恥ずかしながら、これまでの人生で味わったことのない多幸感に我を忘れていたのでした。ただ、ふと胸元に軽く押し返す力を感じて、私は慌てて抱擁を解きました。見れば、傍の運河をちょうどクルーズ船がゆくところでした。舳先が色めく止水に澪を曳き、小さな金の波を立てています。
「すみません。つい、人目も憚らずに……」
 お詫び申し上げたところ、兄様はもの言わず私の左手を取りました。私は思わず兄様を見ました。何事も秘密主義であられる兄様のこと、てっきり私の節操のなさをお咎めになるものと思っていたからです。しかし、射干玉ぬばたまの夜を照らす暖かな光の下で、その御顔は確かに笑っていました。まるで少年のようないたずらっぽさを含んだ、やさしい笑みでありました。
「あなたがちっとも離してくださらないので」
 ふたりの視線の注ぐ先、私の薬指に、見覚えのある銀いろの円環が通ります。まさかとは思いましたが、そのまさかでした。先程にも増して心は弾み、私は審判のときを待つサンドリヨンもかくやという心地になりました。
 それは指の節をひとつ、ふたつと超えて、あるべき場所にぴったりと収まりました。もちろん兄様の指にも同じ輝きがあります。それぞれにひと粒のダイヤモンドを抱く、アルタイルとベガ、惹き合う星の揃いの指輪ペアリング。ああ、と私の口から漏れ出た感嘆の吐息は忽ちやわらかな熱に浚われて、私は夢見るように両のまぶたを閉じました。眩惑めいた恍惚の中、耳にぱちぱちと拍手が聴こえます。重ねた唇の名残惜しく離れたあとで、私は船の乗客方に小さく会釈を返しました。その時の私の顔はきっと真っ赤だったでしょうけれども、おめでとう、お幸せに、とみなさん祝福してくださいまして、まことに有り難いことです、私は存分に幸せを噛み締めました。
 船が遠くなっても、兄様と私は長身長髪の船頭さんが振る帽子を長く眺めていました。やがてそれも見えなくなると、兄様の腕がそろりそろり伸びてきて、私をしかと抱き寄せました。私は迷わず身を預けました。そのまましばらく互いの体温を分かち合っていると、
「これで晴れてあなたは俺のものです」兄様が私の耳元に囁きました。
「はい」ずっと以前からそうでした、そしてこれからも。
「大切にすると言いましたね、さっき」
「ええ」
「俺の方がもっと大切にします」
「ふふ、嬉しいです。……でも、」
「でも?」
「その点については、私も負けるつもりはありません」
 向こう気な私の背伸びに、こんなところばかり似ている、と兄様は笑って、またひとつ口づけをくれました。先程よりも深く思わせぶりな、いっそう頬の火照るキスでした。私は嬉しくてたまらなくて、今一度その躰を強く、強く抱きしめました。
 小樽を征く水の流れは穏やかで、その通り道を風もまた吹き渡ってゆきます。我々はもう互いの真情を疑うことはしませんでした。晦冥払われし七夕の夜、遙けき時のを超えて、双つ星は今やどちらも此岸にあるのですから。

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