古井戸の人魚
以前、或る井戸にまつわる物語を聞いたことがあった。うっかり漁師の網にかかり、貴族に献上された美貌の人魚。貴族は忽ちその半人半魚の生き物に恋したが、彼女の方は海を恋しがって泣いてばかり。報われぬ貴族は怒りのままに人魚を古井戸の中に閉じ込めてしまう。それでも人魚は心変わりせず、故郷を想って泣き続ける。流した涙は溜まりに溜まり、それがとうとう溢れ出すと人魚は海に帰っていった。その井戸はまだフォドラのどこかにあって、人魚の涙が溶けているために水が少し塩からいのだという。
そんなことを思い返しながら、シルヴァンは囚われの人魚のようには泣けずにいた。彼には尾や鰭の代わりに二本の足があり、何も遠くの海へ帰るのではないから、それほどたくさんの涙が必要なわけではない。縁に手が届きさえすれば、あとは這い上がってどこへなりとも歩いてゆけるのである。にも関わらず、その眦は渇いたまま、ひとしずくの涙もそこを流れはしなかった。帰りたいという気持ちになれなかった。というのも、山脈越しにスレンと睨み合うゴーティエの城も、暗澹たる古井戸の底も、自分がいるべき場所ではないという意味では大差がなかったからである。擦り傷にじくじくと水が滲みるのと同じに、あきらめが心に深く染みていた。痛い、とか、苦しい、とか思うことにすら、疲れきっている気がした。
シルヴァンは往路を見上げた。丸く限られた空は、無窮を感じさせる時のそれよりも美しく思われた。紋章、血統、それらに纏わる無数の諍い。見たくないものを見なくて済むのなら、世界はかくも綺麗なのに。
少年は吐息混じりに笑って、それからようやく嗚咽を漏らした。
マイクランはさっさとその場を後にした。
何も殺意があって突き落したのではない。目の前から消えてほしいと思ったその時、偶然そこに古井戸があったという、すべてはただそれだけのことに過ぎなかった。覗いてみろ、と言えば弟は素直に従ったので、後はその貧相な背中をほんのわずか押してやればそれでよかった。自分のものとよく似た赤毛は灯火が絶えるごとくに闇の底へと吸い込まれ、マイクランには悲鳴のひとつも届かなかった。その時に弟がどんな顔をしていたかなど、まさか知る由もない。もとより知りたくもなかったからそうしたのだ。
後のことには露ほどの興味も湧かなかった。運命というものはそもそもが暴君めいて理不尽であり、その被害者を自認するマイクランにとって後悔は無用のものでしかない。そんなものは自分以外の奴がすればいい、ずっとそう思って生きてきた。ただ、憎むべき弟がいなくなった世界の空気は、思ったより澄んでもいなければ、爽やかでもなかった。それは夏のうだるような暑気をはらんで、相変わらずどこか淀んでいた。
ぴちゃ、と微かな水音が聴こえた気がして、彼は一度だけ振り返った。井戸はそれきり静かだった。
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突きつけられる小指と強情。その瑪瑙の双眸は未だ涙に濡れていて、されど毅然と前を向く。この年少の幼なじみはいかにも末子らしくしたたかで、自分に特別甘い兄貴分のかなしき性をとてもよく心得ているのだった。こうすればこいつは絶対に断らない、と。それは事実であるのが、またかなしい。
怪我の養生に費やした半節の間にみたびも見舞いに来てくれたこと、そして再会に際して泣くほどに心配してくれていたことがなにより嬉しくて、シルヴァンはあたかも白旗をあげるような心持ちで小指を番える。
ああ、そうとも、どれだけ負けてやってもいい、このかわいい弟分になら。――でも。
「なあ、さっきの約束、ちょっとだけ変えていいか? "死ぬ時は一緒"。こっちの方が絶対、格好がいい」
薄く笑ってそう告げると、フェリクスは黙ってごくんと頷いた。フェリクスにとってのシルヴァンがそうであるように、シルヴァンにとっても、この純粋で癇の強い少年は替え難く大切な存在だった。自分も、置いていかれたくはない。もとより置いていくつもりもないが。
小指と小指がいよいよ堅く絡み合う。
「ファーガスのきしは、約束をたがえない」
父か兄か、はたまた殿下かイングリットか。誰かの受け売りを諳んじる幼なじみの目は、然し真剣そのものだった。シルヴァンは息を詰めた。果たしてフェリクスは今日の誓いを覚えているだろうか。いつか自分たちが大人になって、その言葉の重みを真に知る日まで。
「うん、ファーガスの騎士は、約束を違えない。……このくらいの怪我、なんともないさ。今に絶対よくなるし、死んだりなんて絶対しない。だからさあ、そろそろ機嫌直してくれよ、な?」
世界はお前にやさしいよ、何も心配いらないさ。シルヴァンは誰彼にともなく心でそう唱えながら、フェリクスの頬を伝ういたわりの名残をそっと拭った。