君懸草
非番の日が同じ、昼に食べたものが同じ、帰る時間と方角が同じ。終いには街中でばったり出くわすという“意味ある偶然”の連続に勇作はよほど感激したらしく、忽ち頬を紅潮させ、それが己にとってどれほども僥倖であるかというのを早口で捲し立てている。
自身の間合いを保とうとして路端に追いやられながら、傍らの尾形は勇作の胸元をちらと見遣った。飾紐の三段目、左側の衣嚢に今日に限って一輪の花が挿してあるのを、出会い頭から目に留めていた。それはいかにも季節の野花という風情で、風防めいた葉の中に並んだ小花が梯子状かつ俯き加減に咲きこぼれ、濃紺の羅紗地に白のきざはしを作っている。胸章にしてはやや貧相であるから、何かの式典の帰りだとかいうことはないらしい。
「何なんです、その花」
尾形が藪から棒に訊ねると、
「幸運のお守りです」自身そう信じようとしているかのように言って、勇作はいっそう顔を赤くした。「今日も兄様にお会いできたのは、もしかしたらこれのおかげかもしれません」
その後も勇作のとりとめのない話はしばらく続いた。師団長の息子でもひとりで蕎麦やなんかを食うことがあるのか、などと考えながら黙って聴いていた尾形だが、おかげで自身が何を言えばよいかは手に取るようによくわかった――要するに、花沢勇作少尉殿は暇を持て余しておいでなのだ。この機会を利用しない手はなかった。来るべき時のために、布石はひとつでも多い方がいい。
「記念に甘味処にでも行きましょうか」
「本当ですか! 是非、お伴をさせてください」
相手は当然ふたつ返事で承諾した。いつもながら自分がまるで警戒されていないことに、尾形の胸の内ではつめたい闇が渦を巻いた。それは或いは、今しがた目の前に咲いた笑顔があまりに眩しかったせいかもしれなかった。祝福されて生まれた異母弟が曇りなき光であればあるほど、その影である尾形には己の身が呪わしいものに思われる。幸運。あまりに楽天的な先の言葉を思い返し、尾形は小さく鼻を鳴らした。
実の兄が裏で陰謀家たちと繋がっていることなど、勇作の方はまさか知る由もない。
甘味処の座敷でも勇作はよく喋った。情報収集は諜報活動の基本中の基本である。ゆえに今日のところは喋るだけ喋らせておこうと尾形は思った。給仕に声をかける時もこの青年将校は笑みを絶やすことがなく、尾形が気のない相槌を打っているうち、みたらし団子の載った皿は串だけを残して空になった。
「こちらのお店、鶴見中尉殿もご贔屓だそうですね。とても美味しゅうございました」
「そうですな」
揃って軍帽をかぶり直す。尉官の勇作は一本線、兵卒の尾形は無線。自分から訊ねない限りは勇作が父の話をすることはないのだと、尾形はこの時に初めて知った。
「兄様。このたびのお代は私が」
「先に払いましたが」
「そうなのですか? では、その分を全額お渡しいたしますので」
「こういう時は素直に奢られておくものですよ。兄の面子を潰さんでください」
「お心遣いは大変ありがたく存じますが、それでは私の気が済みません」言って、勇作はかぶりを振った。「どうしてもと仰るなら、せめて折半いたしましょう」
異母弟の並ならぬ義理堅さを逆に利用してやろうと尾形はいつも考えるのだが、兄の立場を盾にしたところでこの通り、はっきり言って恩を売ることすら難しい。このままいくと押し問答は必至、最終的には譲歩させられるところまで読めている。さてどうしたものか、と尾形が視線を流した先に、"幸運にも"例のものがあった。
「では、」だからこれはまったくの思いつきだった。「代わりにその花をくださいませんか」
「こちらですか?」
兄の遊び心と思ったらしい勇作は目を丸くして、くすりと笑った。
「ええ」頷いて、尾形は口を斜めにした。「どこの淑女から捧げられたものかは存じませんが」
「いえ、向こうにある花屋の御婦人が」尾形の揶揄に頬を染めつつ、勇作は衣嚢から花を取り出した。真白のつりがねが微かに揺れる。「国を護る兵隊さんたちに幸運のおすそ分けを、と。ですから私はあくまで皆の代表としてこれを頂戴したつもりだったのですが、図らずも、私ばかりが良い思いをしているようで」
「あなたがもらったんですから、どうしようとあなたの勝手でしょう。まして今日は非番だというのに、一体どこまで模範軍人のつもりなんですか」
律儀も律儀だと呆れていると、勇作の左手が、蘆花に入る白鳥の静けさで尾形の右手をすくった。やわらかに膚の擦れる音。件の一輪を掌に載せて、外側からそっと包み込むように五指を畳む。その所作の優婉なるを無言のうちに眺めながら、これが軍人同士の、それも上官と部下の間でやることだろうか、と尾形は思った。不快ではないのが癪だった。顔を上げる。目と目が合う。軍帽の鍔に翳れども翳らぬ、祝福された人間の面様。その時仰ぎ見た眸に揺れる見知らぬ光が、尾形の肚をちりと焦がした――父上に愛されていながら、お前はこれ以上何が欲しいんだ。
「どんな花も、咲けば必ず散ってしまう。なのに人は花を贈る。それはどうしてなのだろうと、子どもの頃からずっと不思議に思っていました。……でも、今はその理由がよくわかるような気がいたします」
勇作は忍ぶように微笑んで、重ねた手にわずかばかりの力を込めた。初夏の緑を渡ってきた風を受けて、掌中のこわれものが清楚に香る。青くさくも凛として、高原の涼を思わせる匂いは、この異母弟の纏う雰囲気によく似合った。
「私も、贈る側になりましたから」
尾形はまばゆい眸を覗く愚を二度は冒さず、ただ黙って手元に視線をくれていた――花はみな枯れる。人はみな死ぬ。ならばそこに何の価値があるというのか。どれもこれも俺と同じ、みんな無価値に違いない。俺が花など欲しがってみたのは、"後腐れ"がないからだ。時が過ぎれば消えてなくなる。撃った鳥も、母も、祖父母だってそうだった。もはや姿形すらないものを、一体誰が顧みようか。
人の行き交う夕まぐれ。逡巡の果てに、勇作殿、と尾形はため息まじりに切り出した。
「あなたにこうも温められていたのでは、切り花なんぞすぐに萎れてしまいますよ」
◇
道なき道をかなり降った。大雪山のうつろいやすい天候も味方して、追手は既に巻いたようにも思えたが、それでも決して油断はならない。糸はいつでも緩みなく、ぴんと張っていなければ――しかし額の汗を拭おうと双眼鏡を目から離したその時、足元に骨ほども白いものが見えた気がして、尾形は我知らず後退った。花だとわかると驚きは消えたが、かえって胸が悪くなった。その穢れなき一輪は、なにしろ尾形の知らぬ花ではなかった。
「どんなに腹が減っていても、それは絶対食べたら駄目だぞ」殿が立ち止まったのを察してか、隊の前方から鈴を鳴らすような声がした。「根、花、茎、全体に強い毒がある。触るのもできればよした方がいい」
「なんて名前だ」
よせばいいのに、と尾形が思ったのは言葉が口を突いて出た後だった。覆水収め難く、破鏡再び照らさず。しかし狙撃手の辞書に後悔という文字はない。
「この草か?」駆け寄ってきたアイヌの少女は一瞬、意外そうな顔をした。「スズランだ。芽生えがプクサそっくりで紛らわしいから、私たちにとってはセタプクサ、つまり犬のプクサと呼ぶ程度にはありがたくないものだが、花を愛でるシサムは多い」
進み出たアシㇼパは株の前にしゃがみ込むと、そこにある白のつりがねを小枝で軽く突いてみせた。チリン、とは鳴りそうで鳴らない。振り返った藍の瞳が、素朴な疑問の色で尾形を見上げる。
「しかし杉元や白石ならともかく、尾形もスズランが好きなのか」
「いや、食えんなら用はない」
「そうか」アシㇼパはすっくと立ち上がり、小さな身体を目いっぱいに伸ばして言った。「私も食べられるプクサの方が嬉しいな。でも、スズランがこの時期まで咲いてるのはとても珍しい。普通ならとっくに時期外れだ。もしかしたら、この一輪は花の好きな尾形に見つけられるのを待っていたのかもしれないな?」
「別に好きじゃないが」
「正直に言っていいんだぞ、杉元には黙っておいてやる」
「何の話だ。……ほら、もう行けよ」しぱしぱと目配せをしてみせる少女を退け、抑揚のない声で尾形はぼやいた。「師団の連中に捕まりたくないんなら、間違っても俺の邪魔はしないことだ」
――私も、贈る側になりましたから。
ひとり双眼鏡を構え直す尾形の脳裏を、青く苦い記憶が過る。全身有毒、煮ても焼いても食えない男。迂闊に触ったのは失敗だった。今はもう影も形もないのに、再び目の前に現れて、あの日のようにまなざしを乞う。とうに消えたはずの何もかもを、決して忘れさせまいとする。
(何が父の愛だ。何が旗手の務めだ。ただ散るために咲く花に、意味だの価値だの。そんなものがあってたまるか。……だからあの戦場は、)
遥か遠く、名も知らぬ山の峰に陽が沈む。その光と熱とを遮って翻る夏外套。何事もなかったかのように再び歩き出した尾形の死角、褪せない過去の幻燈に、一輪の鈴蘭がいつまでも幽鬼のように揺れていた。