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唯一無二

 本来、本部付の将校がみだりに一兵卒と関わることはない。生活の拠点が別である上、軍隊という組織の階級制が厳格に両者を隔てるのである。が、若き情熱の火を胸にともす花沢勇作少尉にとって、それはさしたる障碍ではなかった。彼は進んで兵営に顔を出し、食堂、営庭、倉庫、射撃場、厠、敷地内のあらゆる場所へと足を運んだ。
 理由はといえば何のことはなく、そこに兄がいるからという、それだけと言えばそれだけのことであった。それだけのことが勇作には重大事であった。なにしろ父は勇作の入隊まで兄の存在を頑なに伏せていたので、花沢家のひとり息子は士官学校を出て初めて尾形百之助という人の弟になったのである。きょうだいというものへの純なあこがれに背を押されて、勇作は兄のことを知りたいと思った。同じくらい、自分のことを知ってほしいとも思った。稚児が後追いをするように、ついて回った。
 日によって兄とは会えたり会えなかったりの勇作だったが、そうして兵営への出入りを繰り返すうち、風変わりな新人少尉として兵士たちの間で噂の的になった。そして、(本人は無自覚だったが)ひとたび彼の好人物ぶりを知れば、将校嫌いの古参兵も、日がな雑用で寝ぼけ眼の新兵も、多分の親しみを込めて『勇作殿』と呼びかけずにはいられぬのだった。旗手として皆のよすがとなることを貴顕の使命としている勇作は、思いがけず部下との距離の縮まったことを非常に喜んだ。が、誰より兄に名で呼ばれたいのだと気づいたのも、その時だった。

「――ですから、兄様もどうか気兼ねなく勇作とお呼びください」
 それは果たして何度目の申し出だったろうか。いつになったらこいつは俺を諦めるのか、と考えながら並列して歩く間、尾形の坊主頭は燐寸マッチのように廊下の壁を擦り続けた。纏わりついてくる勇作からそれとなく距離を取ろうとすると、最終的にはきまっていつもこうなるのである。逃れようがない。いっそ摩擦で火がつけばいいとさえ思ったが、残念ながら尾形は黄燐ほどに燃えやすいものでは出来ていない。
 通常、将校は朝の点呼が終われば平時の本分である書類仕事のためにさっさと本部に引っ込んで、後は滅多に出てこない。それでなくとも兵営というところは概して不潔であり、まっとうな神経の持ち主なら決して長居したいような場所ではないはずだ、と此処で寝起きする実感から尾形は思う。
 しかし、一の星もかくやというその目が尾形を捉えたが最後、この異母弟は傍を離れようとしないのだった。兄様、兄様と慕わしげに尾形を呼び、いくら注意したところで改める気配もない。せめて人前では控えるよう言い含めて、それで手打ちになったかと思えば、今度は名前で呼んでほしいなどと、耳を疑うようなことを言う。
「何度も申し上げておりますが、あなたは俺の――」
 上官でしょう、と吐息まじりに言いかけて、尾形は横目で異母弟の反応を窺った。まったくもって距離が近い。もし太陽がいつまでも沈まないとすればきっとこんな感じなのだろうが、ため息のひとつやふたつで曇ったりしないだけ、太陽の方が何倍もましだと尾形は思った。第一、妾の子の方には百之助などといかにも軍人の子ですというような御大層な名を与えておきながら、本妻の子の方は〝勇を作る〟、すなわち田吾作だとか百姓の延長上で考えているのだからいい加減なもので、それで謙虚になったつもりかと、尾形は高級将校たる父の顔を脳裏に思い浮かべては鼻白むのだった。
 とはいえ、そんな考えとは無縁も無縁であろう目先の顔は慎ましくも明確な気落ちの色を浮かべていて、開きかけた口が何かしら謝罪のことばを紡ぐのも、おそらくは時間の問題だと思われた。だからなんだ。たかだか名前で呼ばれないだけで、なんでそんな顔をする必要があるのか。しかし、普段ならば過ぎゆくままにするその一瞬の疑問が、果たしてどういうわけか、今日に限って稲妻のごとき衝撃で尾形の思惟を掻き乱した。
 意図せず、唇が戦慄わなないた。
「勇作、殿」
 言葉のこぼれた瞬間、異母弟の顔がぱあっともう一段も明るくなったのを見、我に返った尾形は取ってつけたかのように言い添えた。
「……これで、よろしいですか」
「ああ、兄様……勇作は感無量です」
 正直な勇作のこと、当然それも世辞ではないらしい。その涼やかな目元が陶酔めいて忽ち赤みを帯びるさまを、尾形は何か別世界の出来事のように眺めた。
「大袈裟ですな。よもや旗手のあなたが人前で涙なさるなど」
「えっ、あ、申し訳ありません、……つい、感極まってしまって」
「いえ」
 勇作はいそいそと懐から刺繍入りの手巾を取り出して、眦に二、三度押し当てると、それをまた丁寧に畳み直してから改めて正面に向き直った。こんな洒落たものを持って虱の巣も同然の兵営に入り浸るのはこの男くらいのものだろう、と尾形は特に感心もなく思う。お綺麗なことだ。実際にひどく綺麗なその顔が、尾形と母を捨てたあの男とは似ても似つかぬ精悍な白面が、頭ひとつ高いところから微笑みかけている。
 この軍隊という欺瞞だらけの組織にあって、どうしてこの人物だけは斯くも清くいられるのか。祝福、という二文字が尾形の脳裏をよぎる。勇作にあって、己にはないもの。
「ですが、今ここには兄様と私のふたりきりですから」
 珍しく茶目っ気を出してみせる勇作から、尾形は視線を逸らして言った。
「なるほど、この件は俺ひとり黙っていればよいというわけですか」
「あ、いえ、そういうわけでは……」
「別に構いませんよ。俺とあなたの秘密、ということにいたしましょう」
「兄様と、私の」
「ええ。俺とて下手に口外して、上官不敬で営倉行きにはなりたくありませんので」
「そんな、」勇作は露骨に慌てふためいた。「兄様は何も悪くありません」
 これ以上の問答は手遅れになりかねない。尾形は勇作の脇をすり抜けると、わざとらしく背筋を伸ばして敬礼した。
「花沢少尉殿、呉々くれぐれもその涙顔で公衆の面前にお出になりませんよう。まして、師団長閣下などはもってのほかです。お互い、要らぬ疑いをかけられますから」
「あっ、兄様、……」
「こんなことは俺の前でだけにしてください」
 勇作の伸ばしかけた手が届く前に、尾形は黙ってその場を後にした。

 ◇

「ねえ、百之助。さっきそこで勇作殿に会ったよ」
 弾む声は宇佐美のものだ。隣の尾形は調子を合わせずに言った。
「むしろ会わない日がねえだろ。いつもいるぞ」
「へえ?」宇佐美の声音に悪虐じみた愉悦が滲む。「いやさ、鼻の頭が赤いから、どうしたんですかって訊いてみたんだけど。慌てていなくなっちゃった。……うふふ、あの人ってかわいいよね。お前なんかと違ってさ。つい、意地悪したくなる」
 蛇の巻き付くように、宇佐美の腕が肩へと回る。この先輩は尾形よりも年長なのを意識してか、時折こうして馴れ馴れしい真似をする。が、それは自分が格上だと知らしめるための方策に過ぎず、間違っても気安さからのものではないことを、尾形は短くはない付き合いを通して理解していた。
 百之助、と尾形のことをわざわざ名前で呼ぶのもそうで、親に捨てられた子どもがその親から貰った名前をどう思っているのかというのを、強者の嗅覚でもってよくよく心得ている、ただそれだけのことで、要は嫌味であった。そも、軍隊とは本来そうして力と序列だけがものを言う場所であり、その意味において宇佐美ほど信用に足る人間を、尾形は他に知らなかった。勇作がむしろ異質なのだ。
 宇佐美の目が、確信の光にぎらついている。
「だからわかるんだ。百之助、お前が泣かしたんでしょ」
「俺じゃねえ」
「ふ~~~~ん。嘘の下手なところだけは、兄弟そっくりだよね」
「勝手に泣いた」
「うっわ、ホントに泣かしたの? 半分冗談のつもりだったんだけど」
「俺じゃねえって言ってんだろ」
「はいはい、今回はそういうことにしといてやるよ。……それで、心優しい弟君に一体どんな辛辣なことを言ったのかなあ、兄様は」
「辛辣だと? ……ははッ、」
 尾形は絡んだ腕を乱雑に払い除けると、ムキになって身を乗り出してくる宇佐美の鼻先に向けてぴしゃりと言った。
「お前にゃ逆立ちしたってわからんだろうよ」

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