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夜明けに進路を取れ

 ガラス越しに臨む雑踏。粉雪の舞い散る中、空と同じ曇色の街を足早に通り過ぎる人間たちは当然、俺の知らない顔ばかりだ。そのことを確かめてから、俺は手元のコーヒーを一口啜った。紙カップ越しの熱が、悴んだ指から少しずつも冷たさを奪っていく。味の方はといえば良くも悪くも値段なりのファストな商品、特別うまいという訳でもないが、こんな季節だ、何か温かいものが欲しくなるのが道理というものだろう。
 しかし俺がこんな贅沢になったのも実を言えばつい最近の話で、少し前はコーヒーの味どころか手前《てめえ》が寒いかどうかすらどうでもよかった。雨の日に傘もささず、ひとり濡れ鼠になっているようなことが何度もあった。そんなことが平気だった。世界が俺を愛さなかったから、俺も世界を愛さなかった。これからもこの先も、ずっとそういうものだと思っていた。何も信じていなかった。そのせいで、俺はどこもかしこも傷だらけだった。避けられなかったのもあれば、わざと避けなかったのも、罰として自ら望んだ傷もある。
 痛みというものはいつも新鮮で、決して慣れを生じない。それはこのままだと死ぬ、なんとかしろ、という生身からの信号《シグナル》だからだ。なのに俺は何もかも全部、見て見ぬ振りをしていた。俺自身を含めた誰が死のうが、惜しいことなんかあるわけがないと思っていた。それを証明することが、欠けた人間を演じる俺のすべてになっていた――思い返しながら、俺は窓の外を行き交う見知らぬ顔をつぶさに眺めて、また一口、もう一口、コーヒーを啜る。誰もが帰路を急いでいるように見えるのは、こんな天気だからというのもあるだろう。それにしても平凡な味だ。この平凡が毎日。案外、日常とはそんなものかもしれない。

 約束の時間まではまだまだ猶予がある。俺は残り半分くらいになったカップを脇に置いて、鞄の中から読みかけの本を取り出した。よく暖まった指は、ちゃんと俺の意のままに動く。もちろん眼鏡をかけるのも忘れない。元々、人待ちの間に読書をするような習慣は俺にはなかった。が、この本は勇作が直々に寄越したものだから、読んでみるより仕方がない。ただ俺がこんなことに真面目くさっているのが本人に知れるのはいやなので、家では読まず、出先に持ち歩いてはこうして空き時間にこっそり開いて読んでいる。もう何日目かだったが、――恥ずかしい? 違う、そうじゃない。
 聞けば意外なことに少年時代の勇作は病弱であり(今のその図体で言われても信憑性に欠けるとからかってやったら、私も好きで大きくなったのではありません、などと言って口を尖らせていた)、他にすることもないので本ばかり読んで過ごした時期があったらしい。その時、なるほど勇作が活字を苦にしないのはそういうわけかと俺は思った。そうして病床の退屈をひとり紛らわしていたのか、とも。
 いずれにしろ、勇作が何を思ってこの小説を寄越したのかというのを俺はこの目で確かめる必要があり、わざわざ遠視矯正用のサーモントを作ったのもそういう理由《わけ》だった。宇佐美の奴に話したら馬鹿だと言われたが、俺はそうは思わない。これをかけると勇作の寝顔もよく見える。もっとも、唇を合わせるのにはだいぶ邪魔だが。

 客のまばらな店内では、頁《ページ》を繰る音さえも耳に障った。紙カップ入りの熱源を伴に、俺は静かに文字を追う。実のところ、追っているのは文字というよりむしろ勇作の後ろ姿であることに、俺はだいぶ前から気づいている。あの生真面目が自身よく知らないものを俺に勧めるわけもないから、勇作もこれを読んだはずだ。先にここを通ったはずだ。それは間違いない。いつだって俺の前を勇作は走る。目を閉じてもあの広い背中が視える(あれだけデカいんだ、見ないでいる方が難しい)。さすがにもう軍旗は持っていないが、勇作が何のために、何を目指して命懸けで走り続けるのかを、今も昔も俺は知らない。知らないから知ろうとする。同じ道を歩いて、同じものを見ようとする。
 だから向かって左手に残る紙の厚みが、今はそっくりそのまま勇作との距離だった。それだってもう吹けば飛ぶほどしか残っていない。そのことを意識するだけで、なにやら胸の奥あたりが疼くような気がする。この現象を的確に言い表す言葉も、なんでこうなるかという原理も俺は知らない。まったくもって知らないことばかりだ。俺はボルトアクション式の小銃ほどわかりやすい構造をしていないし、その銃もとっくに手元にない。だがここへ来て、ようやくひとつわかったことがある。俺の指は最後の頁をめくる。舌の上のコーヒーが苦い。
 ――ははあ、この物語の主人公も、俺と同じものが欲しかったのか。
 そうやって大きく息をついた時だった。空気の揺れ、としか形容のしようがない何か徴候めいたものを膚に感じて、俺は反射的に本を閉じた。それをさっさと鞄の中にしまい込む。どうせあとがきしか残っていないから、それは別に後でいい。栞だって、なくていい。
 人生は舞台、人はみな役者、とは誰の言葉だったか。いちいち覚えてもいないが、もしそいつの言う通りなら、俺は俺の役を今度こそは理屈でなしに、己が望むままに演じたい。だから俺の存在に気づいた勇作が自動ドアの開き切るのも待たずに駆け寄ってきた時、俺はすかさず席を立って、向こうが何を言うよりも早くこう切り出した。
「愛しています」
 勇作は一瞬、時が止まったようになった。それから俺を力強く抱きしめて言うには、
「私もです、兄様」
 今しがた外から来たばかりだから、俺を抱く勇作はまだ多分に冬の冷気を帯びていた。トレンチコートの上等な生地までがひんやりしている。見れば髪にも肩口にも粉雪が溶けずに残っていたし、だから相当寒いに違いない、というのはもはや考えてみるまでもないことだった。コーヒーやなんかの前に、俺で暖を取ればいい。そう思いながら厚みのある躰に目いっぱい腕を回して、隙間風も通さないとばかりに身を寄せてやる。このために一時間も前からここで待っていた――などと、野暮なことを俺は言うまい。言わぬが花ということもある。
「メガネ姿も素敵でいらっしゃいますね。初めて見ました」
「伊達ですよ」

 ◇

 勇作について外に出ると街はやっぱり灰色で、そのために吐く息も舞い散る雪も余計に白く見えていた。俺は昔から冬が好かなかった。あまりにも思い出しすぎるからだ。今だってそのはずだが、以前と現在では多少、事情が異なる。その決定的な要因を、俺はまだ見つけられていなかった。が、少なくとも捨て鉢になっているわけではない。俺自身が二度と負けないように強くなったわけでもない。あるいはその逆かもしれない。逆ってなんだ。
 考えることををやめられない俺に、いたって明朗に勇作は問う。
「兄様、寒くありませんか」
 よりにもよって、今それを訊くのか。気づけば俺は笑っていた。横をすれ違うと見せかけて勇作の手を握ると、自分のそれごと上着のポケットに招き入れる。目と目を見合わせて、勇作は蕾の綻ぶような照れ笑いを隠さなかった。ほら見ろ、冬でも花は咲く。しかも耳まで真っ赤にして、なんとも初心うぶであることだ。勇作につられる形で、俺はもうひとつ余計に笑った。勇作の方はもうひとつと言わず、もっとずっと余計に笑った。
 夜明け前が一番暗く、春の前が一番寒い。どれほど穿たれようと決して滅びなかった愛が、俺を何度でもこの世に生かすだろう。兄様、と呼ばれて隣を見れば、ありあけ色に染まった瞳に俺の姿が映り込む。その時、俺の眼もまた勇作をはっきりと映し返しているに違いない。まなざしの向かう先がある。これが祝福でなくて何なのか。
 そうして俺は答えを知る。勇作さん、あなたがいてくれたから俺は、
「もう寒くない」

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