夢でも会えない
その白い幹の並ぶ木立は、故郷の初夏を思わせた。
青く匂い立つ叢をかき分けて、胸にこみ上げる懐旧、郷愁、その他後ろ髪を引く諸々の感情すべてを振り切るように、陽の沈みゆく方へ、フェリクスは歩いた。雨の降った後なのか空気は湿り、土は柔らかく、踏み出す足に泥濘が滑る。道なき道をしばらく進むと、その人物は当たり前のようにそこにいた。逆光の中でも、まさか見間違えるはずはない。まばゆいばかりの金糸を肩口に揺らして振り返った少年は、まだ"人の顔"をしていた頃の、いつかの主君の姿だった。
悪趣味な夢だ。そう思って、フェリクスは声なく嗤った。なぜなら現実のその男は死者の怨念に取り憑かれ、尋常ならざる強行軍の果て、付き従ったわずかな伴を道連れに惨たらしく討死を遂げており、とうの昔に故人だった。
忘れもしない。軍靴と戦火に踏み躙られるグロンダーズの野で、交わした剣戟越しに、フェリクスは見た。誰そ彼よりも昏く燃える獣の眼を。それはもはや仇以外の何者も映さず、一兵卒と幼なじみの、下手をすれば敵味方の区別すらもついていない有様だった。吹き荒れる嵐の化身の前にそれらはみな等しく塵芥であり、あらゆる問いを捻じ伏せる力の無常に、吐く息の耐え難い死臭に、その時、フェリクスは事の取り返しのつかぬを悟った。それが最後の邂逅だった。戦いの後、復讐鬼は終ぞ本懐を遂げることなく仇に討たれた。数少ない目撃者によれば、彼の死に顔は落命してなおも生々しく憎悪に凝りついていたという。その後の骸の行方は杳として知れない。
思い返せば今でも反吐が出そうだったが、悔恨と絶望に焼かれ続けたフェリクスの胃の腑はとうの昔に空だった。革命の旗印を掲げた皇帝が討たれ、戦争が終わり、同盟を基盤におく新国家によるフォドラ統一、および隣国パルミラとの和解が成った今も、時の流れは亡国の痛みを癒やしてはくれない。フェリクスの剣と忠義にもはや行き場はなく、戦場をさまようだけがその余生の全てだった。
一陣の風が頬を打つ。風はそのまま草原を吹き過ぎていった。
フェリクスは腰の剣帯に手をかけると、佩剣の片割れを鞘ごと外した。それは剣士が戦場で命運を共にするに相応しいだけの業物で、フェリクスは己が行く手を阻む者みなそれで斬ってきた――あの日、あの時、どうしても斬ることのできなかった男、ただひとりを除いては。その剣を目の前の王子に差し出すと、それまで凪いでいた一対の碧が微かに揺れた。見つめ合ったまま、抜け、とフェリクスは目配せをした。
ファーガスの騎士は自裁をしない。騎士を裁くのは民か、そうでなければ主君である。夢であれば、まだ叶う。だから、フェリクスはそうした。
が、王子は指を後ろ手に組んだまま、ふるふると横に首を振るだけで、まったく意に沿おうとはしなかった。その背後で、血のように赤い夕陽が水平線に墜ちてゆく――もう時間がない。何を根拠にそう思うのか、それはフェリクスにもわからなかった。
焦燥から衝動的に目の前の腕を掴み、組まれた指を無理に解いた。それからその小さな手のひらに柄を握らせて、何度も握らせようとして、王子がそれを取り落とした時にようやくフェリクスは我に返った。剣はその重量のままに草の束をへし折りながら、その群生の中に、やがては泥の中に鈍く沈んだ。
見れば、眼前の王子はさめざめと泣いていた。澄みすぎて底の見えない空色の目から涙がこぼれ、次から次へと頬を伝って落ちていく。しばらく呆然とそれを眺めていたフェリクスだったが、やがてその前に恭しく膝を折ると、利き手の革手袋を外した。御顔に触れた。払うように、涙を拭った。
「斬る価値もないか、俺には」
王子は答えなかった。答える代わりにフェリクスの頭に手を回して、今は遠く過ぎ去ったいつかにもそうしたように、ぎゅっと胸に抱き留めた。耳のあたりに吐息が触れて、それで名を呼ばれたのだとわかった。が、フェリクスがいくら耳を澄ませど聴こえるのは風の渡る音だけ、言葉らしい言葉は何も届かない。無理もなかった。流浪の剣士はもう、無二の友の声を思い出すことができなかった。
「貴様という奴は、」
抱かれたまま、フェリクスは喉奥から絞り出すように言った。
「どこまでも俺の救いにはならんらしい。いつまでもそうして、俺を苦しめるがいい。裁きも、赦しも何も与えずにいるがいい。それだけのことを、俺はした」
たとえ一時でも、お前の傍を離れるべきではなかった。
「……そうだろう、ディミトリ」
言って、フェリクスは面を上げた。ざあっ、と叢を吹き抜けていった風の痕、そこにもうディミトリの姿はなかった。残照はあの日の戦火のごとく燃え続け、いつまでも罪の色に燃え続け、夢はまだ醒めなかった。