大司教猊下の休日
真白の梢は冬の到来に重く頭を垂れて、その合間からは透き通るような空の青、朧に霞んだ陽が覗く。一面の積雪に音を吸われて、フラルダリウスの森はしんと冷たい静けさに満ちていた。あたりは膚が凍るかと思うほどにも寒かったが、吐いた息もここでは白く煙らない。空気が澄んでいるからだ。
軽やかに雪上を跳ねる牝鹿を、付かず離れずベレスは追う。距離よし、向きよし、方角よし。足場は決して良好ではないが、それは向こうも同条件だ。舞い上がった氷の飛沫が、視界の端を流れてゆく。
――射線に入るまで、もうまもなく。三、二、一……。
今だ、と意識が思惟の形をなすよりも先に、耳に一瞬、風を切る音。
瞬間、射手の放った矢が獲物の頸をするどく穿った。そのために鹿は忽ち体勢を崩し、傷口から血を噴いてまろぶように斃れると、それきり二度と起き上がることはなかった。堰を切って流れ出した生命の色が、白い大地をみるみる真紅に染めてゆく。必要があればとどめをさすつもりで控えていたベレスだったが、先の一撃が致命傷であったことは疑いようがない。半矢は射手の恥、と豪語するだけのことはあって、フェリクスの狙いは相変わらず、いや以前にも増して正確であるらしかった。
なきがらの傍に膝をつき、そっと首すじに触れてみると、当然ながらまだ温かい。どうか安らかに、と両の手を合わせる。ふと人の気配を感じて横を見やると、いつの間にやってきたのか、フェリクスが隣でやはり同じように祈りを捧げていた。
他の必然がない限り、彼は決まって獣の首を狙うが、それは何も射撃の腕を誇示するためではないことをベレスはよく知っていた。そこに射かけて一矢のもとに仕留めるのは確かに相応の技術が要る行為ではあるが、狩猟を道楽と捉える向きのある旧帝国文化とは異なり、王国において狩りは古来から生活そのもの、自然への挑戦、そこから転じて騎士の鍛錬の一形態とみなされている。ここでは人の営みはすべて殺生の上に存在していて、仕留めた獲物は戦利品《トロフィー》である以前に、好敵手、日毎の糧、そして女神からの授かりものなのだった。
だから、狩りをする人は死に向かう生物の苦痛をできるだけ少なくしようと考える。そのためには心の臓を直接射抜くよりも、頭への血の巡りを断つのがよい。彼が自身の持てる業を惜しまないのは主にそういうわけで、もっとも、そこには余計な傷が増えれば増えるほど肉の味が落ちるという実利的な理由も少なからずあるのだろう。フェリクスは学生時代(彼の幼なじみによればそのずっと以前)から無類の肉好きで、そのことは公爵位を継いだ今も変わらない。
さて、黙祷の時間を終えて、フェリクスが獲物をすっかり解体してしまうまでは早かった。
彼はほとんど無尽蔵にある雪と氷で肉を冷やしながら、持参したさまざまの短刀を巧みに使い分け、実に手際よく作業を進めた。やがて事が済むと、彼はいくつかに分けた肉塊のひとつひとつを樹皮で包み、痛みやすい腑と脂の多い部位とを残して(これらは近いうちに食べてしまうのだろう)、他は雪中にこしらえた虚《うろ》に収めた。曰く、こうしておくと食せる部分はやや減るが、柔らかく、臭みが消えて、かつ味の濃い肉になるという。
ベレスはかつてそのような話を傭兵団の仲間から聞きかじってはいたが、実際に見たのはこれが初めてだった。野営の際に狩った獣はその日の夕餉として食し、残りは携行のために干すか炙るかする、というのが傭兵稼業の常であったからだ。行軍中などは尚更、こんな風にする余裕はなかった。
だからこそベレスは興味を惹かれた。そうして日数を経た肉は、一体どんな味がするのだろう、と。
「ファーガスでもこの時期の狩りでしか出来ない、特別の仕込みだ。氷魔法の使い手を大勢引き連れてもいれば別だが」
珍しく冗談を言うフェリクスの背中に向かって、ベレスは素朴な疑問を口にした。
「それというのは、どのくらいかかるものかな」
「少なくとも七日」振り返って彼は言った。
「そんなに?」
「可能なら、その倍」
その返事にベレスは少なからず気を落とした。というのも、私事での滞在は長くとも数日が限度、山荘にはできて一泊、と考えていたからだった。大司教という役職はとかく多忙なもので、戦後の混乱期を過ぎたのと、ベレス本人の慣れの分だけこれでも当初よりは余裕があるはずなのだが、教会には季節の祭事なども多く、気がつけばいつでも雑務に追われている。今回もだいぶ無理を言って出てきた手前、助役のセテスに甘えてばかりもいられない。
せっかくの獲物を味わい尽くすことなく帰るのは、控えめに言っても残念至極だ。が、向こうもそういった事情は重々承知の上で狩猟に誘ったことだろう。何をどう考えても、七日は難しい。ベレスは言い出す覚悟を決めて、重々しくも口を開いた。
「フェリクス、あの……」
「『七日は待てない』、大方そんな話だろう。たいそう仕事熱心であらせられるな、大司教猊下」
語を遮った男の口許には、しかし微かな笑みがあった。互いの立場への皮肉にしてはいやに機嫌よく見えるのがベレスには不思議に思われたが、事情がわからず首を傾げていると、「まあ、聞け」と、彼はなだめるように語を継いだ。
「お前がガルグ=マクを発つ際、滞在の期限を設けなかったろう。セテス殿は」
「たぶん、気を遣ってくれたのだと思う」
「それはそうだろうがな」
すん、と北風に赤くなった鼻を小さく鳴らして、フェリクスは懐から一通の書簡を取り出す。青銀の封蝋にくっきりと押されているそれは、まさか見紛うはずもない、セイロス聖教会の刻印である。受け取って急ぎ中を検めると、そこには時候の挨拶とセテス直筆の署名、そして以下のような文面が綴られていた。
大司教猊下はこのところ働き詰めであり、心身の保養が必要、という見方でこちらの意見も一致している。
鹿狩りと山荘泊の件、承知した。貴殿の発案であることも含め、事の仔細は秘しておく次第である。
職務については心配無用、"すべて食べあげるまで"帰らなくていい、と当人には伝えられたし。
よい休暇を。
これは一体どういうことか。驚いたベレスが面を上げると、おそらくは照れくさかったと見えて、フェリクスはふいと視線を横に逸した。
「セテス殿に協力を仰いで、時間を……いつもより長い休暇を作ろうと、画策した。お前と過ごす、ための」
「私と」
「もっとも、俺の方も暇ではない。うるさい家宰を我らが国王の名前を使って丸め込み、首を突っ込んできたシルヴァンの奴に発破をかけ、留守番を嫌がる猟犬どもをなだめ、……とにかく、予定を合わせるのには苦労した。幸い、その甲斐はあったように思われるが」
なあ、と琥珀色のまなざしが問うてくる。それでようやく、ベレスは大司教という立場を完ぺきに忘れることができた。いとしい人の首すじに思うままかじりつき、腕の中へと迎えられる。それだけでもう、冬の森も寒くないような気がした。
「ということは、」言いかけて、思わず笑みがこぼれた。「私の休暇は、少なくとも七日」
「可能なら、その倍」応じるフェリクスも楽しげに見える。
「そんなにもらってしまっていいものかな。嬉しいよ、素敵な贈り物をありがとう」
ベレスの率直な言葉に、気の早い礼だな、と伴侶は鼻から息を漏らして笑った。