山猫は祈らない
頬を何か温いものが伝い落ちる。はじめは自分の血だと思った。が、すぐに違うとわかった。どこかに投げ出されたらしい俺の躰は、銃を握る指の先まで冷え切っていた。当たり前だった。もう死んでいる。死ぬように撃った。俺は狙撃手だ。これまで散々殺してきたし、この期に及んで手前ひとり殺すくらい訳はない。
もっとも、こんな距離で撃ったのは今回が初めてだった。銃を覚えたばっかのガキの頃だって、もっと遠くを撃っていた。そのことを思えば、俺にとって山猫の子はある意味鳥などより遥かに容易い獲物だったろう。笑える話だ。実際、自ら銃口を覗き込んだ挙げ句、発火の瞬間まで逃げることを知らんような獣はいまい。
そもそも獣は思考しない。問うこともなければ、自裁もしない。息ある限り、生きることそれ自体を目的として、目の前の生にかじりつく。そこに意味を求めた時点で俺は獣のなりそこない、つまりはただの人間だった。さんざ回り道して、実のところは凡百な、ただのひとりの人間だった――こうして初めて、それがわかった。敵兵に戦友、父上、その他の連中、みんな俺と同じなのではない。俺が皆と同じだった。
いずれにしろ、俺は俺自身を惜しいとは思わない。
なぜなら俺は祝福された子どもだから。
何も欠けていないから。
無価値じゃなかったから。
なのに人を殺したから。
俺の目が見ていた悪霊は俺の罪悪感で、
ただひとり俺を愛してくれた勇作は、俺が撃って否定したから。
引き返すには遅すぎて、
どこへも帰れなかったから。
すべてが間違いだったから――こうすることが正しかった。
そうだ。いつだって俺は正しかった。
狙ったものは外さなかった。
誰にも負けなかった。
後悔なんかしていない。
俺を裁くのはアシㇼパじゃない。
アシㇼパであっていいはずがない。
だからこうした。これでよかった。
この結末は、俺が選んだ。俺の死は、俺が選んだ道の果てだ。
それでどうして泣く奴がいる。どうして俺の頬を濡らす。どこのどいつか知らないが、とんだお人好しもいたものだ。大体にして、たったそれっぽっちの水滴で何を洗い流せると思うのか。そんなものは俺の世界には不要の存在、看過できない異物ではあったが、望み通りブッ壊れるまで人を撃った後で、いまさら一発くれてやろうとか、そんな気にはなれなかった。面倒だった。何もかも面倒だった。死んだ人間が動かないのは、面倒だからだ。好きにすればいい、と思った。
いい加減、俺は疲れていた。考えることに疲れていた。頭に風穴空けてまでも考え続けているのだから最悪だ。死んだ後も止まない思考、あるいはこれが地獄とやらの正体か。なるほど坊主どもが脅して回るわけだ。馬鹿馬鹿しい。
とはいえ、俺の目はもう何を見ることもなかったから、そこにいるのが誰であろうと関係ないのは幸いだった。勇作じゃないならもはや誰でも同じことだったし、まさか勇作であるはずはなかった。だって勇作は俺が殺したから。俺に都合のいい勇作は、例外なく俺の作り出した幻だ。兄様とやらのために手前の意思で笑って泣いた本物は、決して俺の思うままにはならなかった本物は、もうどこにだって居やしない。
俺の選んだ世界に愛はない。かつてはあったのかもしれないが、そいつは俺が殺してしまった。そんな場所で、これ以上見るべきものなんかないだろう。
それなのに、頬を流れる誰かの涙、その温度がいやに懐かしい理由を、俺は俺のすべてが終わった今でさえ考えずにはいられなかった。