忘れられた法悦
今宵、この曠野に月はない。全天を包み込むかの如き深い闇。蔓のからんだ格子越しに忍び入るのは、まばらに瞬く星の光だけ。それほど静かな夜だったから、幽栖の窓辺で聖典を書き写していた尾形神父は、階下の不審な物音を聴き漏らさなかった。すぐさまインク壺に蓋をして、ランプから手燭に火を移す。気配を殺しながら階段を降りてゆくと、静寂に満ちた御堂の会衆席、その最前列に、ゆらり人影が揺れている。
「どちら様ですか」
恐れ知らずの神父は、大柄なその人に声をかけることを迷わなかった。ために、むしろ相手の方が驚いたらしかった。弾かれたように振り返った顔が、灯火に照らされて俄に輪郭を得る。ひと目で良家の子息とわかる、気品ある細面。
「! 神父さま、」
狩猟服姿の青年はすっと立ち上がり、鳥撃ち帽を脱いで礼をした。所作はあくまで端正だったが、はしばみ色のその瞳には、どこか旅の疲れ以上のものが滲んでいるように思われた。青年が詫びを口にしかけるのを、神父は敢えて遮った。
「ここは神の家ですからね。立ち入りを咎めるつもりはありません」
「勝手に申し訳ありません」
「咎めないと言ったでしょう」結局詫びずにはいられない青年に、神父は小さく鼻を鳴らした。「道に迷われましたかな」
「……はい」
頷く青年の足元に、神父はちらと目を遣った。よほど歩き回ったと見えて、黒革製の上等な乗馬靴は土埃と泥に汚れてしまっている。それもそのはずだ。この曠野を超えるには、馬の足でもゆうに半日はかかる。まして徒歩、まして日没後の強行軍となれば、無謀にも程があるというものだった。
「神のお導きですな」神父は笑って答えた。「しかし、それなら喉が渇いておいででしょう。幸い、ここは神の家ですから。いくら水が稀少でも、あなたひとりを潤すくらいなら訳はない」
「ですが、」
頑固で慎み深い青年を、神父はやんわりと椅子に押し留める。
「遠慮なさいますな。俺としても稀なる客人を饗したいのです。ええ、こうして誰かと言葉を交わすこと自体、本当に久しぶりなのですよ。あなたのような敬虔な方となると、尚更だ」
不心得の王の御代、人々は科学と機械に熱狂し、信仰を蔑ろにしていた。今や教会を訪う巡礼者も絶えて久しい。神父が地下室から持ってきた杯は純金で出来ていて、葡萄酒は最後の一本、パンは最後のひとかけだった。いずれもかつては聖体の儀で使われていたものだが、もはや使い途はなく、饗すべきものも他になかった。惜しみなく杯に注いだ葡萄酒を、パンと共に眼前に差し出す。だいぶ待ち焦がれていたと見えて、青年の喉仏がためらいがちに上下するのがわかった。
「どうぞ」
「恩に切ります」
教会の懐事情を察してのことだろう、青年は畏れ多く頭を垂れ、それから祭壇に向けて十字を切った。そうして杯を受け取ると、神父がその整った横顔を眺めている間に、こくり、こくりと美味そうに喉を鳴らして、忽ちそれを干してしまった。
「よほど渇いておいでだ。お辛いでしょう」
神父が酌をしようとすると、青年は大いに恐縮しながらもその厚意を受けた。パンを口に放り込んだ後の二杯目も、概ね同様の飲みっぷりであった。その後も同じことを何度か繰り返し、やがて壜はすっかり空になった。
「……ご馳走様でした」潤いを取り戻した唇がさもすまなさそうに言った。「何か御礼を差し上げたいのですが、生憎、私が持っているのはこの身ひとつ。お恥ずかしながら、路銀もすら持ち合わせていないのです」
「その気高いお志だけで充分です」
神は見ておられる、と言葉で付け足す代わりに、神父はぼろぼろの祭壇に目を遣った。それからもう一度青年の方を見、
「しかし、あなたは徒歩でこの曠野を越えるおつもりか」
「はい。私はどうあっても帰らねばなりません」
「身ひとつで行かれるのですか」
「私を待っている人がいますから」青年は力強く答えた。
「何もご存知ないようだ」揺らめく手燭の火を見つめ、神父はため息をつく。
「もちろん、危険は承知の上です」
「道行きの話ではありません」
神父が先程のよりも深いため息をつくと、青年は沈黙のうちに問い返すかのごとく、困惑のまなざしを向けてきた。今は灯火の色に染まっているその瞳が、彼の無辜無謬を暗に物語っている。まるで何も知らないのだ。そう思うと、冷血を自認する神父の胸もなんだか軋むようだった。たしなめるつもりで、青年の肩に手を置いた。それから側面へと回って、わずかに逃れようとする素振りを見せた彼の耳に口許を寄せる。吐息するように、囁く。
「まだ、渇いておられますね」
「え……まさか、」
口ぶりとは裏腹に心当たりがあってしまうのか、青年の息は次第に浅くなった。世にも美しい顔にはこう書いてある――葡萄酒を一壜あけたのだから、そんなことはないはずなのに。その彼に対して、神父は冷静に二の矢を継いだ。
「まだ、というのもおかしいか。あなたの渇望は、パンと葡萄酒などで癒える代物ではない。それはもう、あなたの本当に欲しいものではないからです」
「すみません、神父さま。私には何の話か……」
「こうすればわかりますかね」
言うが早いか、神父は灯を吹き消した。放り捨てた蝋燭の下、台座の鋭利な突起に親指を強く、強く押し当て、
「う……ッ!」
「やはりこちらがお望みのようだ」
皮膚が破れるのと、青年が口と鼻を覆って蹲ったのとは、ほとんど同時のことだった。傷口が吐き出した真紅をふたつ指で伸ばし、血の匂いを芬々とさせながら、神父は身悶える青年に言った。
「お気づきではなかったですか? あなた、吸血鬼なんですよ」
「吸血鬼!」神から見放された忌まわしき怪物の名に、青年は殆ど悲鳴のような声を上げた。その口角から覗く一対の牙を、青年自身の目が見ることはない。「冗談が過ぎます、神父さま。私は、私は決して……」
「本当に、何もご存知ないようだ」
神父は鈍くかぶりを振る青年の正面に立つと、恭しく顎を持ち上げ、下唇に触れた。そのまま入口をこじ開ける。青年はなされるがまま、自身の内なる衝動を認められないばかりか、何が起きているのかもわからずにいるようだった。破れんばかりに瞠られた目からは、とめどなく涙が溢れる。
「ああ……神父さま、どうか、どうかお慈悲を……」
欲望と克己のあわいで慟哭する青年の肩を抱いて、
「大丈夫ですよ。俺は挨拶代わりに聖水を浴びせたり、杭を打ち込んだりなんて物騒な真似はしません。恥知らずの祓魔師どもとは違います」
これ以上の問答は不要だ。神父は口を塞ぐ代わりに、戦慄く唇へ親指を宛がった。どんなにか待ち焦がれた一滴を、青年の舌は受け止めずにはいられない。その瞳から理性の光が消える。それはあたかも、吹き消された蝋燭のごとく。
「心ゆくまでどうぞ」
もう聴こえていなかろうが、構わなかった。神父は聖職者らしい微笑を浮かべて、己に縋りつく罪人のやわらかな癖毛に指を通した。一度や二度でなく、繰り返し、何度も。
青年が正気を取り戻すまではものの数分、それは神父が思うよりも早かった。
「そんな……私は、なんということを……」
嘆息混じりの言葉には、いっそ艶めかしいまでの懊悩が顕れていた。忘我の時が短いというのは、心あるこの青年には誠に気の毒なことであった。
「ご満足いただけましたか」
青年は苦い顔のまま、首を横に振った。まなじりには涙の跡が残っている。
「人を傷つけて満足など、あってはならないことです。やはり私はもう、道を外れた存在なのですね」
これではもう帰れない。そう言って彼が伏せた瞳に、羞恥とも絶望ともつかぬ翳が差した。なんとも痛ましいことだが、それは「とてもおいしかった」と言っているも同然だった。
「俺が勝手にしたことですよ。あなたは牙の一本だって使ってない」
「それでも、です。……申し訳ございません、神父さま。私が此処へ迷い込んでしまったばかりに、あなたに犠牲を強いてしまった」
罪の意識に震える青年の両手が、まだ傷の乾かない神父の右手に触れた。その祈るような仕草には、慚愧の念が見て取れる。不浄な存在に身を窶し、字義通り血に餓えているという事実を内外から突きつけられても、彼が往時の高潔さを失うことは決してないのだと、その時に神父は思った。多くの"人でなし"がすぐさま投げ捨てる痛みを、この男は今も抱えたままでいる。もがきながらも、手放そうとせずにいる。
清く正しい、"本物"の吸血鬼――その様の、なんと祝福されていることか。
「あなたひとりを潤すくらい訳はない、俺はそう言ったはずですが」
神父は微笑を保とうと努力した。が、その完璧はもはや綻びつつあった。
「だって、あなたはどうしても帰りたいのでしょう?」
「……はい」
「でも、どこに? 誰のもとに?」
「それは……」
当然あるべき答えが己の中にない。そのことに、青年は青ざめていた。神父は知っていた。"帰る"のだと言いながら、はしばみ色の瞳に行き先の影はなかった。初めからずっと、ないのだった。
「そもそもどこから来たんです。それすらわかりませんか」
「……」
「ねえ、勇作さん」
その呼びかけに、青年は身を凍らせた。
「どうして、私の名前を」
名乗らなかったはずの名を、――自分でも今の今まで忘れてしまっていた名を、よもや初対面の相手が知っていたとなれば、驚くのも無理はない。神父は勇作の質問には答えなかった。代わりに憐れみの形を真似て、その白い頬に手を伸ばす。顎の優美な稜線を伝い、無防備な頸を思わせぶりに撫で下ろすと、相手はあからさまな動揺を示した。その膚の粟立つのは、よもや期待のためではない。記憶の混濁。転化まもない吸血鬼には、残念ながらよくある話だ。
「……まだ思い出せませんか」神父は哀願めかして言った。
「なに、を……」
「あなたはよくご存知のはずでしょう」
神父としては、宥めすかすつもりも、いたずらに恐怖を煽るつもりもなかった。狙いは正確無比であらねばならない。それだけだ。目を閉じれば形を失くしてしまいそうな闇の中、狩猟服の襟を寛げ、その下に刻まれている徴に触れる。――よい狩人は、外さない。
「この噛み痕をつけたのが誰だったか」
「ああッ」
古傷に牙が沈んだその刹那、清けし小夜の伽藍堂に、引き裂くような叫び声が谺した。神父だった男は、もはや本来の性を偽らなかった。消えてゆく温度。遠ざかる鼓動。勇作の中に押し入ったのは、血肉はおろか骨まで侵す、絶対的な死のつめたさに他ならない。なのに、勇作の背にひらめいたものは怖気ではなかった。痛みの奥の、途方もなく甘い痺れ。震いつきたいほどの恋しさ。軀はちゃんと覚えていた。もちろん、いま呼ぶべき人の名も。
「あに、さま」
唇からこぼれたその音が、勇作の眼を夜闇にひらいた。兄様。私の兄様。勇作はいつかも味わった官能のうちにすべてを取り戻し、最早どこへも行く必要がないことを理解した。既に帰り着いていたからである――永遠を共にする伴侶に弟を望み、この瞬間をずっと待ちわびていた、たったひとりの兄のもとに。
「あなたの目覚めを待つのは、ちっとも苦じゃありませんでした」兄は強がりにもならないことを言った。「何十年だって平気でしたよ。でも俺がちょっと居眠りしてる間に、地下から行方をくらまして、ようやく戻ってきたと思ったら俺を覚えていなかった時……この虚無と渇きばかりの胸がどんなに掻き乱されたか。勇作さん、あなたには到底わかりますまい」
「ごめんなさい、兄様。ごめんなさい」
「もう忘れたんですか。咎めないと言いましたよ、俺は」
長すぎた宵は終わった。"神の家"もまた、その役目を静かに終えた。もう神父ではない彼は金杯が転がるのも構わず、晴れて眷属になった己のよすがを抱きしめる。そして口許を艷やかな罪の色に染めたまま、祭壇の上の傾ぎかけた十字架を――神の目にもよく見えるよう――仰ぎ見て、うっとりと、燃える氷のように微笑んだ。