悪魔の証明
天国は今日もすばらしい快晴だった。なにしろ雲の上の話なので、“荒”天とか、“悪”天とかいうものはここにはなかった。
万物を創りたもう神は地上を隅々まで見晴るかし、そして言った。
「人間の魂の輝きに勝るものはない」
「あなたは連中を買いかぶりすぎだ」と、横で聴いていた悪魔は食ってかかった。「地に蔓延る人間どもはあなたの前では善良ぶっているだけで、悪魔の俺には安心してその本性を剥き出しにする。あなたはいつもそこから見ているだけで、間近でご覧になったことはないのでしょう。醜いものですよ、何ら価値があるとは思えない」
「悪魔よ」それは神らしい鷹揚な呼びかけだった。「そこまで言うなら、ひとつ私と賭けをしようではないか」
神は微笑みを湛えたまま、右手の人差し指をすっと上げた。すると指先から美しい金の炎が走り出で、神がその炎で宙に円を描くと、まるく燃えた部分が人間界を覗く窓になった。身なりのよい若い男がひとり、蝋燭の灯で何やら書き物をしている。神はその男を指して言った。
「花沢勇作。彼は今、地上で最も高貴で清い魂の持ち主だ」
「また依怙贔屓か」悪魔はわざとらしく舌打ちをした。
「最後まで聞くがいい、明星の悪魔よ。かの魂はいずれ私のものにするつもりだが、お前が『人間の魂に価値はない』という証明をやり遂げたら、私はかねてのお前の言い分を認め、再び"地上の大掃除"をするとしよう――いつか方舟に贈った誓いを破棄してな。だがもし証明できなければ、その時は私の言うことをなんでも聞いてもらう」
「ハ、全能を自称するくせに、賭けで負かさなければ俺に命令のひとつもできんとは」
「全能だからだよ」神は笑った。「すべて思いのままでは、つまらんだろう?」
「後悔しますよ」
悪魔はその一言だけを残し、流星となって夜空を駆けた。そうして闇色の世界に澪と曳かれた光芒を、神は天の御座から眺めていた。言葉通り、高みの見物であった。
◇
石の街は深い眠りについていた。悪魔が音もなく窓辺に降り立った時、月は空のいちばん高いところにあった。ノックなどという無粋な真似はもちろんしない。部屋の中が不自然に暗くなったことに気づき、今しがた床につこうとしていた人間がふいに窓の方を振り返ったが、その時にはもう悪魔は硝子窓をすり抜けて、青年の死角に潜り込んでいた。
「ごきげんよう、定命の者」悪魔は実に機嫌よく言った。
「あなたは……」
夜目の利く悪魔の方からは、振り返った青年の顔がよく見えた。名工の手で大理石から削り出されたかのような、鋭い気品を持つ白皙が驚愕の色に染まっている。それは悪魔からすればなんとも良い眺めであった。だが、その愉悦はさほど長続きしなかった。何かひらめいた様子で、花沢青年がぱっと笑ったのだ。これには悪魔の方が驚いた。そして次の言葉を聞いて、もっと驚く羽目になった。
「迷子の猫ちゃんですか?」
「違います」
確かにその時の悪魔は黒猫の姿をしていたが、それは悪魔流のごあいさつであって、言わば人間どもに凶兆を印象づけるための気の利いた演出なのである。
「アホか」ゆえに思わず悪態が出た。「猫がしゃべるわけないだろうが」
「何事も、頭から決めつけてしまっては面白くありませんから。……わっ、」
悪魔は蒼い火柱を立てて、たちまち正体を表した。先の尖った尾に、一対のねじくれた深紅の角。やや時代がかった貴族趣味のファッションは、古典文学の挿絵に出てくる"人間好みの"悪魔の姿を模している。神からは古くさいとか散々に言われていたが、この悪魔というのは生真面目で、とりわけ儀礼的なことにこだわる性質であった。
「見てのとおり、俺は悪魔です。人間を恐怖に陥れ、甘言を囁き、悪の道に誘う、あの悪魔です。もしご存知なければ、どうぞお見知りおきを」
「悪魔、さん」
「さん?」
青年は恐れ慄くどころか、その眼に夢見るような光を滲ませて悪魔を見ていた。曇りのない眼だった。最も高貴で、清い魂の持ち主――ふと神の言葉が脳裏を過ぎって、悪魔はスンと鼻を鳴らした。今に化けの皮を剥いでやる。思うことは、これだけだった。
「わざわざ訪ねて来てくださったのですね。悪魔さん、お会いできて嬉しいです」
「用件を手短に申し上げます」渋々握手に応じながら、悪魔は真顔になって言った。「俺はあなたの願いを叶えて差し上げるために参りました。富、名声、愛、……欲しいものはなんでも手に入りましょう」
愛、という言葉を発する時、悪魔はその音を、自身の口の動きを、とりわけ白々しいものに感じる。ある時は欲望の言い訳として、またある時にはカネでやりとりされる消費財として、都合よく利用される蜃気楼。そんなつまらないものでも、欲しければくれてやるのが悪魔の仕事である。
「素敵なお話ですが、悪魔さんには何か見返りが?」
「俺は嘘をつかない主義なので、ごく正直に申し上げます。神の野郎と賭けをしてるんですよ。人間の魂には価値がないことを証明できたら俺の勝ち。単純明快です」
「ないことを証明する。それは“悪魔の証明”ですね」
その言葉を聞いて、悪魔は不機嫌に顎をしゃくった。たとえば悪魔が存在することを証明するには、そいつを人前に連れてくればよい。だが存在し"ない"ことを証明するためには、この世のすべての土地を調べ上げなければならない――そのように証明不可能な事柄を、人間たちは諦念めかしてそのように呼ぶ。しかし、いつも「いる」のに「いない」ことにされている悪魔からしてみれば、人間のモノの考え方は前提からして意味が"ない"、すなわち問い自体が無意味なのだった。
「つまりあなたはこう言いたいわけだ。そんなことは不可能だと。でも俺は正真正銘本物の悪魔ですから。すべての魂に価値が"ない"ことの証明くらい、簡単です」
「では、どのようになさるのです?」期待に満ちたまなざしが、悪魔に注がれた。
「他ならぬ神があなたを地上で最も穢れのない魂の持ち主だと証言しているのです。そのあなたが欲にかられて破滅したとすれば、神といえども人間に愛想を尽かすでしょう。まあ、破滅といっても、そんなに悪いものじゃありません。普通に生きてたのでは到底見られない、とびっきりの夢をご覧にいれますよ。お望みならば、永遠に」
「なるほど。そうして私の魂はあなたのものになるわけですね」
「は?」
「以前読んだ物語に出てきた悪魔は、願いの対価に魂を要求していました」
「いや、そんなものはいりません。俺は人間が嫌いなので」
その返答に勇作がなんだか残念そうな顔をするのを悪魔は怪訝に思ったが、理由を訊くのはやめておいた。訊かずともわかる。この男はどうやら己が魂の値打ちを疑いもしないらしい。“悪魔の証明”のしがいがある、と悪魔は冷え切った肚の底で思った。神はおろか悪魔すらもが欲して当然の魂、そんなものがあるはずは"ない"。
「で、どうです。いくら高潔といってもあなたも人間なんですから、願い事のひとつやふたつはあるでしょう。もっとも、先のようなことを証明できるなら、俺としてはいくつでも構いませんが」
「何を願ってもよろしいのですか?」
「いいですよ」と、悪魔は胸を張った。
「名前を教えてくださいませんか」
未だかつてこんなちっぽけな願いがあったろうか。聞いた悪魔は呆れ返ったが、何かの揺さぶりかもしれないと思い直し、にわかに襟を正して回答した。
「俺は悪魔です。それ以上も以下もない」
しかし勇作が全然納得いってない顔なので、仕方なく次のように付け加えた。
「明星の悪魔です。……裏切り者だの、叛逆者だの、あなた方人間がいろんな名で呼んで忌み嫌ってる奴は、実際にはみんな俺のことだ。だから呼び名に大した意味はない」
「じゃあ、結局悪魔さんなんですね」
「ええ。これでひとつ叶えましたから、上々です。次の願いをどうぞ」
「もう遅いですから、今日はこれまでにします。今夜は是非泊まっていってください」
「……わかりました」
「ベッドをどうぞ。私は椅子で大丈夫ですから」
「床で構いませんが」
「悪魔さんはたくさん願いを叶えて、私を破滅させなくてはならないのでしょう? これを含めてもまだふたつですよ」
「違います。泊まるで二つ目、ベッドに寝ろというなら三つです」
「はい。三つ目も、叶えてくださいますね?」
悪魔は面食らった。わざわざ悪魔を家に泊めて、しかもベッドを譲る人間など聞いたことがない。こんな奴だから神も魂を欲しがるのか。悪魔は露骨に渋ったが、終いには言われるがまま予備だというネグリジェ(悪魔に似合わぬ純白であった)に着替えて、勇作のベッドに横になった。地獄のつめたい石の上で毎日寝起きして、それで一向に困ったことのない悪魔も、妙にふかふかして暖かく、そして知らない匂いのする寝床では、どうにも気持ちが落ち着かなかった。
そんな悪魔に向けて、勇作が安楽椅子の上から淡く微笑んでいる。それは満たされているように見えて、どこか儚い感じのする笑みだった。貧しい連中と違って雨風を凌げる家があり、日毎の糧にも困っていないはずの彼がどうしてそんな風に笑うのかは、この時の悪魔にはまだわからないことだった。
やがて蝋燭の火も消えて、蜜蝋の甘い匂いのする煙がゆうるり流れゆくと、部屋はまた元の通り、月明かりに照らされるだけの静かな場所になった。
「おやすみなさい、悪魔さん」
◇
それからというもの、悪魔は屋敷に住み込みで勇作の願いを叶え続けた。もちろんそれは自身の証明のためだったが、夜中、勇作が咳をすることがあるのでお前がベッドに寝ろと叱りつけると、勇作は一緒に寝てほしいと言うのだった。意味がわからなかったが、願われたら叶えずにおけないのが悪魔である。ただ、勇作ひとりでも手狭な場所にふたりはどうしたって無理があるので、悪魔はまた黒猫の姿になって、できるだけ端の方に丸まって眠った。なのに起きたら勇作の腕の中にいるのだから、悪魔にはますます意味がわからなかった。
悪魔の頑張りも虚しく、勇作はなかなか破滅しなかった。おかしい、と悪魔が考え始めたのは二十個ほど願いを叶えた頃のことであった。「億万長者になりたい」「誰より偉くなりたい」「絶世の美女をものにしたい」などと分不相応なことを願う人間なら早晩自滅するのだが、勇作は自分でやれることは当たり前に自分でするし、たまに何か願うことがあっても、それは実に些末な、悪魔個人にこうしてほしいと頼むようなものばかりなのだ。これではいつまでかかるかわからない。しかし辛抱強い悪魔は望みを捨てなかった。いかなる機会も逃すまいと、勇作の行くところならばどこへでもついていった。
そうして月日の過ぎるうち、図らずも悪魔は勇作についていろんなことを知った。かつて大学で教鞭をとる数学者だったが、少し前にやめて以来、貯金を崩して生活していること。最近、使用人に暇を出したこと。そのせいで家事全般を自分でやる羽目になっていること。それを苦にしている様子もないこと。食べ物の好き嫌いをしないこと。寝相はお世辞にも褒められたものではないこと。雨の日を楽しく過ごす術を知っていること。時々ものすごく強情なこと。やりかけの証明がいくつも帳面に残ったままになっていること。いつも眩しいくらい笑っているのに、悪魔が地獄に帰るフリをしてこっそり窓から覗いてみると、決まって灯の消えたような顔をしていること。だんだん、咳がひどくなること。
そうして悪魔が九十九個目の願いを叶えた日の夜、
勇作はとうとう吐血して倒れた。
「解せませんな」
窓の外では木枯らしが唸っている。暖炉に薪をくべると、中で爆ぜている火があっという間にそれを舐めた。したこともない看病とかいうやつをしてみながら、悪魔は勇作に訊ねて言う。
「人間はなにより死を恐れる。なのにあなたときたら、来る終焉を前にして、異常な落ち着きぶりじゃありませんか。執務机に残した仕事を惜しむでもなく、まるでこうなることがわかっていたと言わんばかりだ。そのくせ、俺に延命を願う様子もない」
「そう見えますか」
「ええ」悪魔は自信たっぷりに首肯した。「まったく、解せません。たとえこの世のあらゆる医者が手遅れを宣告しようが、今あなたの目の前にいる悪魔には、それを覆す用意があるというのに」
あなたが願いさえすれば。しかし寝床で半身を起こしている勇作は曖昧に微笑むだけで、首を縦に振ることはなかった。血色のよかった膚は今や蒼白に近く、洗いざらしのネグリジェがまるで聖なる死装束のようだった。実際、食物も水も受け付けなくなった勇作の身体は、もはや度を超えて清いと言っていい。何も欲しがっていないのだ。とはいえ、果たしてこんな風になることが『天国に近い』ということなのだろうか。神の偽善をまざまざと見せられた気がして、悪魔はかすかに眉根を寄せた。
「座して死を待つのは、賢明とは思えませんが」
「約束したんです」
「約束? 一体何を……」
勇作は問いに答える代わりに、黙って首から何かを外した。それは繊細な花の紋様が彫り込まれた金のロケットだったが、見せられるままに中を覗き込み、悪魔は心底ぎょっとした。
「どこでこれを。あなたはこの人間を知らないはずだ」
「ずっと、ずっとお会いしたいと思っていました」勇作の声は心なしか震えていた。「本来ならば叶うはずのない願いを、神様が聞き届けてくださったのです。約束の通り、あなたをここへ遣わしてくださった」
「魂と引き換えにか」
相手が答えないのを見て、何もかも察した悪魔は額を覆った。賭け自体、はじめから仕組まれたものだったのだ。
「神の野郎、俺を嵌めやがった」
ロケットの中の写真に映っている人物のことなら、悪魔は誰よりよく知っていた。というのも、それはかつての自分自身――父に捨てられ、終ぞ顧みられることのないまま死んだ、哀れな少年の姿だったからである。当然、勇作が父と本妻の子、つまり自身の腹違いの弟であることも悪魔はすべて承知の上でここへ来た。父のみならず神までも、自分ではなく祝福されて生まれた弟の方を選ぶというなら、悪魔のやるべきはただひとつ、その魂に価値が"ない"ことをあらゆる手を使って証明することだった。なのに。
「兄様」
弟は兄をそう呼んだ。はにかみながら、この時をずっと待っていたかのように。
「兄様は私を実の弟と知っていて、一緒にいてくださったのでしょう?」
「あなたは俺にとって賭けの道具です。神の鼻を明かしてやるための、手段です」
言葉とは裏腹に、悪魔の胸には今まで感じたことのないものが続々と込み上げた。固く握りしめた拳は、その意に反して小刻みに震えた。悪魔は勇作の目を見ることができずにいた。もしそうしたなら、何かが吹きこぼれてしまいそうだった。こいつは神とグルだった。悪魔を謀ったのだから、ちっとも清くなんかない。しかも、どう考えても割に合わない取引のせいでもうすぐ死ぬ。神はまんまと勇作の魂を手に入れ、負かした自分のことはオモチャにするだろう。そう考えて、悪魔は静かに下を向いた。“痛み”も“怒り”も、そしてもちろん“寂しさ”も、この時の悪魔にとっては知らぬ名だった。
「奴のことだから、夭折した俺がどうして悪魔なんかやってるか、あなたに洗いざらい話して聞かせたでしょう。地上にはない居場所を与えてもらった恩を仇で返して、叛逆の罪で"堕ちた"んですよ。……そんなものを、あなたは兄と呼ぶのですか」
「いけませんか?」勇作の目に強い意志の灯が宿った。
「は?」
「私のたったひとりの兄様を、兄様と呼んでは、いけませんか?」
「ははッ、これから神のものになろうというくせに、随分なことを仰る」
「昔、父に連れられて行った葬儀でのことです」勇作はロケットを両手で包み込むようにして言った。「花に埋もれた子ども用の小さな棺に、美しいご婦人がひとり、縋りついて泣いておられました。写真は、その方から頂戴したものです。この子がいたことをどうか覚えていて、と。私には兄がいたのだと、初めて知ったのがその時でした」
「過ぎたことです」悪魔は投げやりに言った。
「そうです、過ぎたことです。過去を償えるとは思っていません。だから、こうしたのは私の我儘です。ただ、出会う前に逝ってしまわれた兄様と出会い直す夢が叶うなら。どんなに短い間でも思い出を作ることができるなら。私は、私自身の何も惜しくはなかった」
「……」残される俺のことは考えなかったのか、とは悪魔は言わなかった。
「兄様、今度こそはちゃんとお別れをさせてください。さよならのご挨拶を、させてください。私が御許に召される前に。それが私の最後の願いなのです」
揺らめく炎に照らされた眦には、涙が光っていた。
「あなたは愚かだ」
死んだ奴のことなんか、忘れてしまえばそれで済む。だが、
「そんなつまらないことに賭けていいほど、自分が安い魂だとお思いか?」
悪魔は目の覚める思いだった。その科白を口にして初めて、自分がとうに賭けに負けていたと知ったのである。しかし、勝敗などはもうどうでもよかった。証明の行方も、神の面目を潰すことも。すべて二の次以下にしても構わないくらい、今、彼は目の前の"それ"が欲しかった。
「別れを惜しんでくださるのですね。嬉しいです、兄様。……ですが私は、」
良い子を黙らせるには、人さし指一本あれば事足りる。実際、そうされると勇作は素直に口を噤んだが、なかなか良い顔をする、と悪魔は思った。
「あんな狡い奴との先約がなんです。あなたの魂には運命を変えるだけの価値がある。なんでも叶いましょう。その魂、俺に捧げてくださるなら」
それは本当ですか。驚いた勇作の物言うまなざしに、悪魔は紳士的に答えてやった。
「嘘の方がよろしいか? まあ、なにしろ俺はろくでなしの悪魔ですからね。あなたを取って喰わないという保証はどこにもありません。……だが勇作さん、あなたが神よりも俺を信じるというなら話は別だ。俺は言いましたよ、あなたの魂を頂けるなら、俺は神の定め給うた運命すらも討ってみせると」
それから悪魔は獲物の横たわるベッドに膝をつき、纏っていた外套をするりと脱ぎ捨てた。それが晩秋の冷気を帯びた床の上に落ちると同時に、隠していた黒鳥の翼――堕天する前はいつかのネグリジェと同じくらいも白かった――を広げてみせる。舞い散る漆黒の羽根、みるみる見開かれる勇作の眸。とっておきの演出を決めた悪魔は得意げに笑い、こぼれた前髪を丁寧に撫であげた。終幕は近い。
「さあ、百個目の願いを」
ふたつ指で貴公子の顎をすくって、その峻嶮な鼻梁に顔を寄せてやる。はしばみ色の双眼に映るのは、まるい月を背にした自分の姿それひとつだ。眸の中に囚われている己の姿を見、果たしていつからこうだったか、と悪魔は自嘲めかして笑った。それはあるいは、初めて出会った時からずっと。左手の指をぱちんと鳴らすと部屋の灯という灯はかき消えて、煙の匂いだけが薄く残り、窓の形をした月明かりが舞台照明のようにふたりを照らす。病みたる勇作の膚はその下で一段と青褪めて見えたが、そのつめたげな静謐とは裏腹に、燃える唇は炎のいろをして、絶えず熱い息を吐いていた。
「兄様、」
差し伸べられた両腕が項に回って、悪魔を一気に引き寄せる。拒む理由は何もなかった。この先のことは、神にだって見せてやらない。ふたりを載せるには小さすぎる寝台が悲鳴めいた音を立てる中、悪魔は不思議と満ち足りた気持ちで、誰の目からも覆い隠すように、あるいはそっと抱きとめるように、美しき青年貴族を両翼の中に閉じ込めた。
「――」
記念、いや祈念すべき百個目の願いは、この世でたったひとりにだけ聴こえるよう、とても小さな声で囁かれた。既に正当なる対価を約束されている悪魔は、持てるすべてを使ってそれに応じることにした。奪うだけ、奪われるだけの一方通行では契約たり得ない――「地獄に堕ちろ」という神の言いつけを今日までずっと守ってきたように、悪魔というのは、律儀なのだ。
「証明してみせましょう」唇の離れた後、悪魔は生命の熱に焦がれて言った。「今日のこの選択を、あなたが決して後悔し"ない"ことを」
◇
瑠璃を光で溶いたような、清々しく澄んだ空の下。うたた寝から今しがた覚めたばかりの、控えめな欠伸の音がひとつ。もらい欠伸が、もうひとつ。
「むかしの夢を見ました」
「またですか。よほど気に入っていると見える」
「私の大事な思い出ですから」
「俺とあなたの、でしょう」
「ふふ、そうでした」
兄は露骨に拗ねた振りをして、上向きに湾曲した優美な角に接吻する。揃いの尻尾は互いの離れがたさを示してか、既につがいの蛇、または運命の赤い糸ほども複雑に絡み合っていたが、悪魔の兄弟はふたり競い合うように、もうひとつずつも巻きを作った。
「俺だって、どんなに夢に見たことか」
結局、勇作の魂が神の手に渡ることはなかった。主治医をして奇跡としか言いようがないほどの回復を見せた彼は、その後ほどなく学壇に復帰。数学者として独力で数々の重要な証明を成し遂げて九十余年の生涯を全うし、死後は自ら地獄に堕ちて清冽に過ぎる美貌の悪魔になった。そうして今は天国を出禁になった兄の隣にいる。契約だからというのは実のところ建前で、好きでそうしているのである。それは兄の方も同じだった。そのことを神が悔しがったのか、はたまたすべて御心のままだったのかは、それこそ“神のみぞ知る”と言ったところか。
「願われるのでなく願ったのは、あれっきり一度だけです」
やわらかな風が草原を吹き渡ってゆく。地獄にも春は来るのだと、その時までは誰も信じていなかった――弟の魂の温度を直に触れて知っていた、たったひとりを除いては。兄弟がここで再会を果たした時、そこらじゅうを覆っていた氷は嘘のように溶けてしまった。今や天も地も生命の彩りに満ち、魂の比喩としての蝶が舞うこの場所に、やってくる死者たちは困惑を隠せない。果たしてここは本当に地獄の下層なのか、とは今や通りかかる誰もが抱く疑念であった。
中でもとりわけ彼らを驚かせたのは、かの悪名高き嘆きの川の有り様だった。裏切り者に永遠の罰を与える氷獄、という恐るべき話はどこへやら、耳に心地よいせせらぎの音に、きらきら輝く銀の川面。そしてふたりの悪魔が慕わしく身を寄せ合うそのほとりには、いつかの勇作の願いを映した“Forget-me-not”という名の空色の花が、どうしたって忘れようもないほどに、一面、美しく咲き誇っていたからである。