愛のエントランス
唇を浅く噛みしめると、そこにはまだはっきりと火照りが残っていた。今やどちらのものとも判別つかなくなったその熱に羞恥心を煽られて、フェリクスは居た堪れずに後ろを向いた。落とした視線は一点には定まらず、石畳の上を忙しなく行き来する。俺は誰より強くなる、そう心に決めて剣を振り回していた時分にはどんなにこっぴどく打ち負かされようとも前か、あるいは上ばかりを見ていた剛情きわまる彼にとって、それは初めて見るにも等しい景色であり、驚愕、動揺、そしてある種の決定的な敗北を意味していた。
敵味方から畏怖を込めて剣鬼とまで渾名されたこの達人をかくも屈服せしめたのは、他ならぬ彼自身の情念であった。『頼まれたって御免だ』、何節か前までならばフェリクスはその行為についてそう吐き捨てたに違いなく、無論したいと思うようなこともなく、むしろ唾棄すべき行い、克己心を欠いた輩のすることくらいに考えていたのだった。まさか自ずからそれをしてしまうことがあろうとは、その時、その瞬間まで露思わずにいたのである。
そこには激しい昂揚もなければ、もう引き返せないという怖気もなく、ただ、そうしないでいることがもはや看過できない不自然であるかのように、言わばフェリクスは必要に駆られて、それで愛しい人の唇をさらったのだった。
「……悪かったな」目線を床に落としたままで言う。
「こっちを向いて」
「とんだ醜態だった。お前に合わせる顔がない」
「私が君に会いたいの」
こうなるともう彼に勝ち目はなかった。それだけ一途に相手のことを好いていたのである。
彼女は振り返ったフェリクスを忽ち歓迎した。両の頬はふんわりと薔薇色に染まり、その白く細い指には繊細な銀細工の鎖が握られている。それが輪の形に開かれると、中に指輪がひとつ通してあるのがわかった。要するに、これは首飾りなのだ。彼女は輪をゆっくりと頭上に掲げる。意図を汲んだフェリクスが少し屈んでみせると、彼女はありがとう、と出会ったばかりの頃からは想像もつかないような柔和な微笑みを返して寄越した。その輝かんばかりの、今は彼にだけ向けられているその笑顔が、またいたくフェリクスの胸を打つのだった。
銀の鎖はフェリクスの込み入った髪型を少しも崩すことなく、するりと頭を通り抜けた。彼は己が胸元にやってきた指輪を丁重につまみ上げると、まだ微笑んでいる彼女に一瞥をくれ、そして再び視線を指輪に戻した。それは女物のようであったが、彼女が普段これを身に着けているのを見た憶えはなかった。紫水晶だろうか、石座に散りばめられた輝石が陽光に透けてさまざまな顔を見せている。実に可憐な代物だった。
「両親の形見よ」
「いいのか」
俺にくれてしまっても。はたと面を上げ、思わず問うたフェリクスに、彼女は晴れやかな顔で頷いた。
「いつか大切な人ができたら贈るようにと、父から託されていたものだから。そう、『愛している』……私も、君と同じ気持ち。謝ったりなんて、しなくていい」
終わりまで言い終わらぬうちに、不意に彼女の躰が彼にもたれかかり、それからその華奢な両腕が、蔓のように回り込んで項を捕らえる。忘れかけていた火照りを思い出し、フェリクスは忽ち赤面したが、今回は彼女の腕を解《ほど》いて背を向けるどころか、間近にある翠の瞳から目を逸らすこともしなかった。己を真っ直ぐに見つめる時のそれが、いつにも増して美しいことに気づいたからだった。
「ね。お願い」彼女はいたずらっぽく笑って、それから哀願するように小首をかしげた。「……もう一度、君から」
「ああ」
ありがとう、と滅多に言わぬ礼の言葉を述べた後、初めて彼女の名を呼んで、
フェリクスはベレスに再び口づけた。