昨日のまろうど
出かけてゆく兄を朝靄の中に見送って程なく、インターホンが高らかに鳴った。ドアスコープを覗いた勇作の目は、白の外套を目深に被ったひとをレンズ越しに捉える。重い扉を開けると、相手の顔をみとめる前に冷たい質量が勇作の胸元に押し当てられた。見覚えのあるそれは、間違いなく二十六年式拳銃の銃口だった。
「トリック・オア・トリート」
「兄様、……」
「ハロウィンは昨日でした、と仰りたいのでしょう」
かたえくぼのその人が前髪を撫でつけると、頭巾がはらりと後ろに流れた。声からして疑いの余地はないのだが、目の前の帝国軍人は紛うことなき兄本人だった。その口数の少ない兄が、今日は自嘲めかして言葉を並べる。
「そうです、俺は出遅れました。ですが、こんな馬鹿をやるにも万全を期すのが狙撃手というものですので。日本では些か商業的に過ぎるこの風習の起源を調べ、あなたがひとりになるのを虎視眈々と待っていたわけです。昨夜は随分とお楽しみでしたね」
「ええ、まあ……」
「現在広く流布しているアメリカ式ハロウィンの源流、アイルランドのケルト文化では十月三十一日は一年の終わりであり、死者が帰ってくる日だそうですな。なんでも現世と常世との境が薄くなるからだと。そして本場ではランタンにカボチャではなくカブを使う」
「勉強になります」
「でもそれは昨日でした、とあなたは仰りたいのでしょう。その通りです」
「あの、兄様。私は気にしておりませんので……」
「あなたがよくても、俺は気にします」兄の白い指が拳銃を握りかえ、まだ昇りきらない初冬の陽を浴びた銃身が鈍く光った。「勇作殿。一日遅れの幽霊を、どうかその手であの世に送り返してはくれませんか。……なに、簡単なことですよ。この銃で俺を撃てばよろしいのです」
「できません」勇作は毅然とかぶりを振った。
「音が近所迷惑というなら、銃剣もここにありますが」
「お気遣い痛み入ります。でも兄様、私は本当に気にしていないのです」
「ですから、俺の方は気にすると申しておりましょう」
磨き上げられた黒檀を思わせる深い色の瞳が、まっすぐに勇作を見ていた。
「俺の罪に酬いてください。いつかあなたの言った通りでしたよ。俺にもあったんです、罪悪感というやつが。俺は欠けた人間じゃなかった。あなたと同じ、祝福された子どもだった。確証を得るまで、あまりにも長くかかりましたが」
「であれば、きっとおわかりになるはずです。私がこうしている理由も」
言うが早いか、勇作は兄をかたく抱きしめた。何事にも完璧主義の兄らしく、その服装はいつかの記憶のまま、あまつさえ鉄と土埃と硝煙の匂いまで纏っていて、髪型こそ違えど、まるで本当に過去から現れたかのような再現度だった。
「赦しのあるところに、罰はなくてよいのです」
まさか兄の方もこのことを憶えていたとは知らなかった勇作は、もう隠し事をしなくていいという安堵と、かの戦場の苛酷、そして刻を超えて心通じ合った感慨に、思わずして涙をこぼした。
「ハハ、これが旗手のあなたの馳走というわけだ」すぐ近くで兄が笑った。「……懐かしい」
◇
気がつくと、軍服姿ではない、スーツ姿の兄が息を切らしてそこにいた。走って戻ってきたのだろうが、ぱりっと糊のきいたシャツも、勇作がウインザーノットに結んだバーガンディのネクタイも、ついさっき見送った時の状態そのままだ。
「忘れ物を、しました」
勇作は困惑した。頭から足元に至るまで、どこも着替えたようではない。第一に、普段ネクタイなどしない兄は自分で結ぶ方法を知らないのだ。
それでは、今まで腕の中にいた人は?
玄関口でまごつく勇作に、鼻の頭の赤い兄は怪訝な表情で言った。
「なんです、勇作さん。まるで幽霊でも見たような顔をして。俺だって忘れ物くらいしますよ。それとも、まだお祭り気分が抜けんのですか。……やれやれ、ハロウィンは昨日だったでしょうが」