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最後の一本

 薄く湿った夜気の中、無心に紙巻を燻らす尾形の背後で、控えめにサッシの開く音がした。ここに入ってくる人間は考えられる限りひとりしかいないので、尾形はいつも振り返らない。
「兄様。タバコ、おいしいですか?」
「あ? ……ああ、」
 勇作が喫煙中の尾形を構うのは珍しかった。こうして隣に並んでも、大抵はただ見ているだけなのだ。尾形は喋るのには邪魔なそれを口から離すと、煙が勇作に向かわぬよう、上方へ長く息を吐いた。
「あなたの思う〝おいしい〟とは、ちょっと違うかもしれませんが」
「私にも、一本くださいませんか」
 尾形は横目に勇作を見た。箱入りのこの異母弟は、時に突拍子もないことを口走る。
「やめておいた方が賢明かと。それに、これが最後の一本なので」
 言って、注意書きだらけの空箱を目先で揺らしてみせると、勇作はつんと拗ねた顔をした。元々裏表などあってないような――これは身内贔屓でもなんでもない――人間だが、勇作がこれほど素直に感情を表現をするようになったのは割に最近のことだった。ただ、その理由までは尾形の知るところではない。
「兄様はいつもそうです。弟の私に気を遣って、私を遠ざけようとする」
「……」舌打ちをする代わり、無言で銀皿に灰を落とす。
 気を遣ってるのはどっちなのか。反論する気にもならず、尾形は暫く黙っていた。
 背後では点けっぱなしの部屋のテレビが、プロ野球の何やら熾烈らしい優勝争いの行方を占っている。シーズンも残り何試合だとか、ゲーム差がいくつだとか、マジックがどうとか。そんな取るに足らない情報を聴くともなしに聴きながら、尾形は肺に煙を流した。食後の一服はいつもながら甘美で、意識の輪郭のすっと冴えていくような感覚をもたらす。しかしそれが刹那の快楽でしかないことを、尾形は身を持って知ってもいる。
 車通りもほとんどない、静かな夜だった。どこか遠くの野っ原では鈴虫だか何かの透羽がしきりに鳴っていて、忍び寄る秋の気配を帯びた夜風が、触れた金属製の欄干が、夏の名残を知る膚に冷たかった。
「……これを吸ってると、」手元の熾に目をくれながら、やがて尾形はぽつりと言った。「死んでいくのがわかるんですよ」
「何が、でしょうか」勇作が神妙な面持ちで訊ねた。
 何が? にわかに面倒くさくなって、尾形は頭を掻いた。そうするとせっかく撫でつけた前髪が解れて落ちるので、それをまたかき上げなくてはならない。面倒くさいの悪循環であった。
「あー……肺の細胞、とか」
 これだけでは説明が不足しているような気がして、
「まあ、生きていないものが死ぬことはありませんから。生きているから、死ぬんです。タールだとか、ニコチンだとか、そんな余計なものにまみれて。それで初めて、汚れていないことのありがたみがわかる」
 と、適当に付け加えた。それが却って悪かったのか、勇作はどうにも要領を得ない顔で、顎に手を当て、しきりに首を捻っている。尾形は終始真顔でそのさまを見ていた。
「……あの、兄様。やっぱり、一本、いや一口くださいませんか。お話はよくわかりましたが、実際に吸ってみないことには、本当のことはわからないと思うのです」
「わからんでいいです。あなたのような人は、正常な肺で、清浄な世界の清浄な空気を吸えばよろしい」
「いやです」勇作は首を頑と左右に振った。「兄様がそこにいないのなら、私はいやです」
 こうなるともう梃でも動かないのが花沢勇作という人間なのだと、尾形はこれまでにも嫌と言うほど思い知らされてきた。誰に似たんだ、石頭のわからず屋め。尾形は諦念のため息をついて、向こうの顔色を窺うようにしながら「懲りますよ」とだけ言った。その直後、嬉々として感謝の言葉を述べる勇作に、もうひとつ大きなため息をつく羽目になった。
 尾形はやりとりの間に長くなった燃え殻を振るい落とし、吸い口を勇作の方に向けて差し出した。そのまま咥えてしまえばいいものを、育ちの良い勇作はわざわざ両の手を添えるようにして受け取り、しげしげと眺めた後、ふたつ指で挟んだそれを唇のあわいに差し込んだ。
 その様に、尾形は思わず眉根を寄せた。口許を指の影に隠すようなその仕草が、他ならぬ自分の真似であるとすぐにわかったからだった。このためか、いつも見ていたのは――しかし、約束は約束である。そこから目の背けたくなるのをぐっと堪えて、尾形は言った。
「……少しずつですよ、」
 が、終いまで言い終わらぬうちに勇作が激しく咳き込みだして、言わんこっちゃない、と尾形は思わず額を覆った。煙を一気に肺へ入れてしまったにしてもあんまりな咽せ方である。騒ぎを聞きつけてか、そのうちに隣のベランダからおっかなびっくり顔を覗かせた者がいたが、尾形がするどく一瞥をくれるや逃げるようにイガグリ頭を引っ込めた。この無害な隣人は、野次馬っ気のわりにはいたく小心であった。
 尾形はそんなものには一向構わず、傍らの背中をさすってやった。ほとんど歳の違わない弟は尾形よりよほど立派な体躯をしていたが、なかなか止まぬ咳のために屈み込むその背中が、兄の目には思いがけず小さく見えたのだった。
「まったく、……加減というものを知らんのですか」
「す、すみません。次は大丈夫です、から、」
 尾形はまだ苦しげな勇作の手からシケモク数歩手前のそれをヒョイとつまみ上げると、「次はありません」と突き放すように言った。涙目の勇作は至極無念そうに口端を歪めたが、散々釘を刺したのがようやく効いてか、もう我侭を言うことはなかった。
「さあ、入った入った。俺の最後の一本を、これ以上、邪魔せんでください。いいですね、勇作さん」
 意気消沈する異母弟をサッシ窓の合間に押し込んですっかり隔絶した後、ひとりになった尾形はポケットの中の空箱をくしゃりと丸めて、溢れた灰をサンダルの底ですり潰した。そして先行きの短いタバコを別段惜しむでもなく吸って、吐いて、幾度かに渡ってそれを繰り返し、終わりに皿の中へ押し込んだ。線香花火の最期さながら、燃えさしはジュッと短い断末魔を上げてそれっきりだった。
 深呼吸の後、尾形は肩越しに振り返って窓辺を見た。聞き分けの良い勇作は、今度こそは兄の意を汲んで奥へ引っ込んだようだった。おとなしく台所で洗い物でもしているのだろう。そう思って尾形は本日三度目のため息をついたが、今度のそれは純粋に安堵からのものだった。
 これ以上、悪い手本にされてはかなわない。既に尾形の意は決していた。
(俺が禁煙すると言えば、宇佐美の奴はさぞ驚くことだろうよ)
 腐れ縁の驚愕に引き攣った顔を脳裏に思い描きながら、尾形は人知れず忍び笑いをこぼし、それから腹いっぱいに息を吸った。少なからず煤けた肺に、清浄な世界の清浄な空気とやらを今一度取り入れるかのように。
(もののついでだ。お前もやめろと迫ってやる)
 感化されるというのは、何も悪いことばかりではない。紫煙の晴れたあとの空を仰ぐと、そこには眉のように細い月と無数の星々が瞬き、無窮の闇はどこまでもさやかに澄んでいた。

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