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林檎の赤、追憶の紅

 爽やかな香りに脳を揺すられ、シルヴァンの意識はゆるやかに眠りから醒めた。天井の白がまどろみを劈くごとく目に滲みて、たまらず顔を横に倒すと、椅子に掛けたフェリクスが黙々と林檎を剥いている。
 さりさりと耳あたりの良い音と共に、真紅のリボンのような皮が少しずつその長さを増してゆく。なかなかどうして器用なものだ。そんなことをぼんやりと考えながら、寝ぼけ頭のシルヴァンは丸い果実を転がすその手元にしばらく魅入っていた。妙に手慣れた所作はもとより、白色灯の下できらめく銀色と、刃先を滑っていく赤色、なんだか物騒にも思えるその取り合わせが、どういうわけか、フェリクスにはよく似合う気がするのだった。
 そう、以前にも、どこかで――雨の降りしきる野辺、銀の一閃、赤く染まった水たまり――彼は遠い記憶を脳裏から手繰り寄せることを試みたが、それらは断片的な上にどこか霞がかって曖昧で、およそ現実感を伴わなかった。きっと何か、悪い夢でも見たのだろう。考えてもわかりそうになかったので、シルヴァンはそのように思うことにした。
 そもそも、この年下の居候がこれほど刃物の取り回しに慣れているということ自体、シルヴァンからすればまったく思いもよらないことであった。炊事の手伝いをさせようとしたこともなかったし、それこそ林檎やなんかはきまっていつもシルヴァンが剥いて、フェリクスは専ら食べる方だったからだ。

 芋の皮むきくらい頼んでも罰は当たらなかったなあ、というシルヴァンのささやかな後悔をよそに、林檎は今や淡黄の素肌をすっかりあらわにしていた。フェリクスは俯いたまま、どこか物思いの翳のある顔でそこに唇を押し当てると、ひとくち、少し置いてまたひとくち、それを齧った。滴るような咀嚼音に、濡れた花を思わせる色艶の唇に、シルヴァンの喉が思いがけずこくりと鳴って、瞬間、一対の琥珀が驚くべき早さで彼を捉えた。穴が空くほどにも見つめてくるフェリクスのまなざし、その視線の強さに負けて、柄にもなくシルヴァンは赤面して言った。
「……あー、えーっと。俺の分は?」
 思いのほか長く眠っていたのか、こうして顔を合わせるのも、言葉を発することすらも暫くぶりのような気がしていた。よくよく見ればここは病室で、宙に吊られた足には鈍器を思わせる物々しいギプスが嵌められ、腕は腕で何かの薬剤と透明な管で繋げられている。それでようやく、シルヴァンは自分が帰宅途中にバイクからアスファルトの上に放り出されてこうなったというのと、全身の軋むような痛みとを思い出した。
「目が覚めているなら、そう言え」
「ごめん、まだぼんやりしてて。……心配、かけたな」
 返事の代わりに拗ねたような顔が間近に迫り、まだ多分に水気の残る唇を寄せてくる。軽く触れたそのあわいへと誘われるように舌を差し挿れ、深く絡ませると、果実の甘く清涼な香りが初夏の風のように鼻腔を吹き渡った。

 ――ああ、おいしい。でも、あれ、俺たちっていつもこんな恋人みたいなことしてたんだっけ。
 そんな思惟もが懐かしく恋しい熱の中に融けていくのを感じながら、シルヴァンは"いつかそうしていたように"、随分と長く時間をかけて、フェリクスの咥内を貪った。

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