極北の地、その夢と希望に就て
まだ背丈が今の腰くらいにしかなかった頃、シルヴァン少年は春の終わりと秋の初めにゴーティエの居城を訪れる行商人をとくべつ贔屓にしていた。
十二の歳を迎えると、彼の寝所は両親のはからいにより城の裏手に面した静かな角部屋(これはかつて彼の兄マイクランにあてがわれていたこの城の"一等地"であった)に移されたが、その来訪が近くなるとシルヴァンは決まってかつての自室、表側に面した光あふれる窓辺で彼を待ち受けたものだった。
ゴーティエの坊っちゃん。
行商にやってきた男は人好きのする笑顔を浮かべ、初対面から何ら衒いなくシルヴァンのことをそう呼んだ。草枕の生活にだいぶ擦れたような、色の黒い男だった。自分がそうなら兄上だってそうだろうに、と当初シルヴァンは思ったが、彼がその兄のことを『マイクランさま』と少し突き放したように呼ぶのを聞いて何も察しないほど愚昧でもなかった。
男が取り入っておきたいのは兄ではなく、さりとて自分でもなく、あくまで次期辺境伯という立場なのだろう。もっともシルヴァンはもうそんなことには慣れていたので、そんな我が身の境遇に失望してみることもせず、その時は適当に突き放しておこうと、ただそれだけを思っていた。
然し季節がひと巡りする頃には、彼はこの行商人がこの地に持ち込む異国の香り、見聞の広さ、果ては日に焼けて薄皮のめくれた鼻やなんかにも漠然と親しみをおぼえるようになっていた。
フォドラ北方を国土とするファーガス神聖王国、その最北に座すゴーティエはその土地柄ゆえに華やかな帝国文化の潮流からは程遠く、苛酷な気候、深い森のために巡回を試みる行商人の数も少ない。大抵は王都フェルディアか、隣のフラルダリウスを旅の北限として踵を返してしまう。だからこの男は密かに芸術を愛好するシルヴァンにとってほとんど稀人《まれびと》も同然であり、男の方もそれを知っていてか、ファーガス東部まで足を運んだ時にはゴーティエの城にも欠かさず立ち寄るようになっていった。
男は大人相手の用事をすべて終えてしまうと、秘密の宝物を持ち出してきた無垢な子どもさながら、含みのある目配せをして、坊っちゃん、とひと言、シルヴァンを物陰へと気安げに手招くのだった。それが互いに示し合わせるともなしに決まったふたりの合図であり、そうして呼ばれていったシルヴァンが覗き込む化粧箱の中には、時には帝国歌劇の台本の複製《レプリカ》、時にはうつくしい挿絵の添えられた物語、時には見たこともないような風景を写し取った画板がまるで金銀財宝のようにして収められていた。男のそうした手土産はきまってシルヴァンの胸を高鳴らせた。
商品の売り込みついでに男が語ってくれるよもやま話もまた物珍しく、シルヴァンの興味を惹くものばかりだった。かつて魔道の大家としてその名を轟かせた帝国のヌーヴェル家にはペンを操って自動筆記をさせる秘伝があったのだとか、かのガルグ=マク大修道院の地下深くには仮面で素顔を隠した幽囚の怪人が棲んでいて夜な夜な人を拐うのだとか、そのほとんどは真偽の疑わしいものであったが(但し"ヌーヴェルの生きた筆"については後年その直系にあたるコンスタンツェが部分的に真実だと証明することになる)、シルヴァンにはその胡乱さこそがむしろ好ましく思えていた。男の巧みな話術も相俟って、それは歳のわりに冷めたところのあるシルヴァン少年に、これが本当だったらいいのにな、と夢想する心を思い出させるに至った。
そうしてシルヴァンは行商人の来訪を心待ちにするようになったのである。
今後ともどうかご贔屓に。
男は帰り際、いつもそう言ってシルヴァンの手を両掌で包み込むように握った。それが商売人としての上っ面の態度に過ぎないのか、それとも個人的な親しみや真心に根ざしたものなのか、シルヴァンには確かめる術もなかったが、都度、後者であればいいなと彼は密かに思うのだった。それもまた、彼が抱くようになったささやかな希望のひとつであった。
そしてシルヴァン少年の"贔屓"は、郷里に年老いた母があるというその男が領内の賊の略奪に遭って命を落とすまで、何年かの間続いた。