正午の空に星は見えない
今日は三月二十四日、時刻はちょうど二十時を回ったところだ。スマートフォンの明るすぎる画面を消して、勇作は夜の空を仰ぐ。その手にあるのは、色の褪せた星座早見盤。今は精度の高い星座盤アプリもあることはあるのだが、アナログの、昔ながらの――蓄光塗料が暗やみに薄ぼんやりと光る――それを手動で回す作業が、勇作は好きだった。バックライトの光をその身に溜めて、熱なく燃える螢火は天上の星々への道標となる。
三月の下旬でも、道内の夜気はまだ刺すような冷たさを保っていた。なおも残雪があちらこちらに蟠り、今日のように零下になる晩もさほど珍しくはない。東京では既に開花の時を迎えた桜が、こちらでは未だ蕾んですらいないのだ。大きく息を吸い込めば、空気の通り道である鼻腔は当然として、肺腑の奥まで寒さがツンと滲みるようで、痛みにも似たそれが不思議と勇作の懐旧を誘う。もっとも、星を見るにはこんな冴え冴えとした夜でなくてはならなかった。はっきりと春を感じるような時分にはきまって霞が出て、星々の輪郭もぼやけてしまうのだった。
勇作の探すやまねこ座は、目立って明るい星を持っていない。北の空、北斗七星のほど近く、しし座、ふたご座、ぎょしゃ座、おおぐま座と錚々たる顔ぶれに囲まれていながら、それらの絢爛には伍さない孤高の星座だ。名付け親である天文学者ヘヴェリウスにも「姿を見るには山猫のような鋭い目が必要」と言わしめたほどのささやかな光だから、空が暗く澄んでいる時と場所を選ばなければ、地上の人間にはとても見えはしないのである。だから勇作は月の化粧直しの隙を突いて、きらびやかな街のネオンから遠く離れたこの丘の上にやってきた。実のところはもう何日目かだったが、月齢、天候、気温、湿度といったさまざまの条件に、今日ほど恵まれたことはなかった。
今宵こそは、という強い気持ちが勇作にはあった。朔の今宵が天体観測にはまたとないチャンスだというのも理由のひとつだが、来月に帯広の航空大学校への入学を控えている勇作には、単純にもう時間がなかった。パイロットという子どもの頃からの夢、その実現への第一歩――にも関わらず、めでたく進路が決まってからというもの、勇作は前ではなく上ばかりを見るようになっていた。反対する父の説得にあまりにも難儀したから、それで燃え尽きたのかと最初は思っていた。が、違うのだとじきにわかった。名状のできない何か大いなる空白が、もの想う勇作の身の裡にぽっかりと口を開けていた。焦燥ばかり、空回った。
天にまばゆい導きの星も、今の勇作を目的地に連れていってはくれない。なにしろ自分が何を求めていて、どこへ往くべきかもわからないでいるのだから。以来勇作は実家の押入れから発掘した星座盤(勇作の空への憧れはかつてそこから始まった)を道連れに、言葉通りの暗中模索を繰り返していた。子どもの頃には見つけられなかった星に出逢うことができたら、これまでは見えなかったものが見えるようになるかもしれない。多分にロマンチストなところのあるこの青年は、そうして"最後に残った"やまねこ座を訪ねることに決めたのである。
頭上には闇色のキャンバスが果てなく広がっている。星がなければどこが天と地の境界かもわからぬほども暗く、静かな夜だった。文明的なものから隔絶されたる原初の孤独に身を震わせながら、見えるだろうか、と勇作はその深みにそっと目を凝らした。視力には自信があっても、視力だけでは駄目なのだ。
(見ようとする意志がなければ)
ふたご座のポルックスと、しし座のレグルス。ふたつの一等星を慎重に結んで、その線を二分した先に山猫の尾にあたる星が――あった。捉えた瞬間、勇作の心臓が跳ねた。それは何かの錯覚かもと疑いたくなるくらいの幽かな存在感しかなかったが、間違いなくこの星だと勇作は思った。逸る視線が尾から胴、胴から肩、肩から頭とわずかばかりの光を繋いでゆく。心の絵筆で星座を描き、そうして出来上がったそれは確かに、いつかのヘヴェリウスも見たであろう、しなやかに駆ける山猫の姿をしていた。
遂に見つけた!
勇作の歓喜が頂点に達したその時、まばたきほどの一瞬に、天球をきらりと光るものが流れた。そのことは何百光年も離れた無名の星の隕つる様、すなわち遠い昔に過ぎた死を意味したが、勇作には山猫が今泣いているのだと思えた。内から衝き動かされるように、勇作は両の手を合わせて瞑目した。
会いたい人に会えますように。
主語のないその祈りは、勇作自身の切に望むことでもあった。
自身の洟を啜る音ではたと我に返って、勇作は改めて星海に棲む山猫を見上げた。それは依然ひっそりと間隙に潜んでいたが、星々の光は先程よりも滲んで見えた。手指はもうすっかり冷えている。こんなにも寒い夜なのに、胸の奥だけがじりじりと灼かれるように熱い。
勇作の願いは今やはっきりとしていた。自分には、どうしても会いたい人がいる。しかしその人の名前も顔もわからないのでは、何をどうすることもできない。宛てのない切実を擁えて、勇作は少なからず落胆した。これでは何の解決にもならないし、恋しさはいや増すばかり、叶わないことが明白なだけ、かえって苦しいというものである。
(私には、何か大切なものが欠けている。埋める術はなくとも、それがわかっただけで十分と思うことにしよう)
帰ろうか。そう思って夜風の凍みる頬を拭い、星座盤を小脇に提げた矢先、後ろから何か、カツンと乾いた音がした。宵の静寂に亀裂が入ったかのような音だった。勇作が驚いて振り返ると、そう遠くはないところでスマートフォンの画面が冬枯れの地面に伏している。傍には人影があり、その人が落としたものだとすぐに知れた。数瞬の間をおいて、露光に照らされた安全靴の先が一歩、二歩、後ずさる。
「勇作……さん」
「! あなたは、」
独り言とも呼びかけともつかぬ声の思いがけない懐かしさに、気づけば勇作は矢も盾もたまらず駆け出していた。着陸ビーコンが出ずとも、ふたつの目はもう前だけを見ていた。懐かしいのは声だけではない。足音を殺す癖。どこか淋しげな佇まい。飛び込んだ胸が教えてくれた――知っている。自分は初めて会うこの人を知っている。
「ははッ、こんなの嘘だろ。嘘じゃなけりゃ、あまりにも都合が良すぎる」
言葉とは裏腹に決して突き放しはしないその人に、
「嘘じゃありません」勇作は淀みなく言い切った。「あなただったんです、私がずっと探していたのは」
空に月はなく、ふたりの導足り得るのは星明かりが精々くらいのものだったが、夜の航路に互いの星を求め続けた勇作と尾形には、今はそれだけの光があれば十二分に事足りた。