死線は越えても
禍々しい牙の立ち並ぶ大口が、大気を震わす断末魔の叫びを上げた。数瞬の間をおいて、天を覆うような巨体がぐらりと揺らぎ、その慣性のまま勢いづいて運河へと沈む。ほどなく赤の水面に浮かび上がった魔獣の骸、その硝子玉のような眼球は先程までの凶暴な光をとうに失い、ただ虚空を映すのみとなっていた。フェリクスは辛うじてしがみついた生の岸辺からその様を眺め、ようやくといった体で息をついた。
勝利の昂揚、安堵も束の間のこと、堰を切ったように押し寄せる疲労感に、剣を握った利き手が重い。ひとつ薙ぐように血振るいをしてから、やっとのことで得物を鞘へと納める。名工の手による大業物。魔獣相手に用いたのは初めてのことだったが、その切れ味のほどは見ての通り、疑うべくもないものだった。この刃の冴えこそが、今しがた、言葉通りに生と死を分けたのだ。
ようやく呼吸と脈の整う頃、はるか対岸向こう側の剣戟の音を掻き消すかのように、遠く、蹄の音がした。襲歩だ。その音の剣呑さがフェリクスの右手にほとんど反射的に鯉口を切らせたが、本隊が着実に帝国軍を押し込んでいるこの状況で、こんな街外れへの増援や奇襲はまずありえない。ましてや、単騎でなど。フェリクスは己が神経の昂りを鼻で笑って、なおも剣柄にかかる指をそっと解《ほど》いた。
足音がだんだんと近くなり、一頭の見事な黒鹿毛が、放たれた矢のごとくに橋梁を横切ってくるのが見えた。その騎手はフェリクスの予想の通り、くろがねの鎧を纏った赤毛の男。
「フェリクス!」シルヴァンが馬上で声を張り上げる。
彼我の戦力差を埋めるための一計として、単独、本隊から魔獣を引き離す役を負っていたフェリクスを案じてだろう、この兄貴分は殊勝にも早馬を飛ばしてきたのだった。
その機動力をして王国随一と謳われるゴーティエの黒馬も、さすがに今回は無茶を強いられたと見て、吐く息は火のよう、四肢をがたがた震わせてさえいる。随分な扱いだったろうが、もし仮に口を利くことができたとしても、馬は主人に対して恨み言のひとつもこぼしはしないだろう。シルヴァンの愛馬は主によく似て、哀しいほどにも聡かった。
馬だけでなく、鞍上から降り立った騎手の方にも珍しく余裕のなさが目立った。道中でいくらか交戦したと見えて、鎧には点々と泥や返り血が撥ね、額は汗ばみ、もともと癖の強い髪は千々に乱れて跳ねている。そこまでならば戦場では日常と言えるほどによくあることだが、この洒落者のかように切実なる表情、そしてそれを取り繕おうともしない姿は、これだけ付き合いの長いフェリクスにとってもあまり覚えのないものだった。
駆け寄ってくる男の顔は今や憂いと焦燥に翳り、そこに普段のような風采はなかった。
「怪我は」
「血のことならば、俺のものではない」
フェリクスは答えながらに袖口で頬を拭おうとしたが、そこも既に紅く染まっているのを見ては諦めざるを得なかった。返す刃で魔獣の腹を裂いた時に、結構な量の血を浴びていた。先の戦闘の目的はあくまで時間稼ぎであり、無理な手は出さなかったので負傷らしい負傷はなかったものの、相手は人外、体力勝負ではおよそ勝ち目がない。あの時攻勢に転じていなければ運河を流れるのは己の骸であったろう、とフェリクスは経験則から思っていた。はじめから出来ないと思えば囮役など買って出るわけもなかったが、結果として無理をしたには違いない。
「……なら、よかった」
そう言ってようやくシルヴァンは笑みを浮かべたが、それも今はどこかぎこちないものに見えた。
あの約束を持ち出して無茶を咎めてくるものとばかり思っていたフェリクスには、この兄貴分の意図が今ひとつ読めずにいた。こいつは先生や猪王子に一体どんな無理を言って来たのだろう、と目の前にある顔をじっと見つめ返してみたが、そんな真似をしたことでかえって気恥ずかしくなって、慌てて顔ごと逸らす羽目になった。フェリクスは人の表情からその心を透かし見ることがあまり得意ではない。それは剣や言葉といったものに比べて複雑すぎたし、そうしようとすればするほどに、自分の側が筒抜けになってしまうような気がするからだった。とりわけ、誰にもはらわたを見せたがらない性質のシルヴァンが相手となると、尚更そう思えてならなかった。
だからこんな時、以前であればシルヴァンは必ずと言っていいほどフェリクスをからかったものだが、今はそんな気配すらも見せなかった。シルヴァンは何かを言う代わりに薄く笑って、しかし瞳は痛みを得た時のように細めたままで、どうしたらいいかわからないという風に、ただそこに立っていた。
「随分と、情けない顔をするものだな」
フェリクスの視界が急に揺らいだのは、あまりのもどかしさに思ったままを口にしたその直後のことだった。革張りの胸甲が頑強な騎士鎧に押し当てられ、吸い付くようにひたりと重なる。返り血で汚れることも厭わずに、シルヴァンの両の腕がフェリクスの躰を抱き寄せていた。
「……っ、放せ。ここは戦場だ」
「こうしちまえば、どんなに惨めったらしい面《つら》だって見えやしないだろ」
「阿呆、いいから放せ」
「いやだね」
してやったりというような、からかい調子の言葉だった。肩口を見やれば確かに視界に映るのは揺らめく炎にも似た赤毛ばかりで、表情の一切は窺えないが、その顔はきっともう笑ってはいないのだろう。徒に交わすにしては随分と堅い――思わせぶりに過ぎる抱擁だと、フェリクスには思えた。逃れようともがくほどに掻き抱かれ、かかる指先の力強さに、わずかに触れ合った素肌の部分から伝わる温度に、一度は落ち着いたはずの拍動が次第に速度を増していく。
「なあ、フェリクス、……お前さ、いつもひとりでおいしいとこ持っていこうとするなよな。俺の見せ場も、少しは残しておいてくれよ」
この期に及んで、シルヴァンは自身に嘘をついている。途中の不自然な沈黙が、そのことを暗に示していた。らしくもない、拙い嘘だ。フェリクスは思わず顔を顰めた。
「おこぼれを頂戴させろと頼む馬鹿がどこにいる。つくづく格好のつかん奴だ」
ある種の諦念と共に、精一杯の悪態をつく。少なからず反駁しながら、フェリクスの心は実のところただひとつの言葉だけを待っていた。それをもし、この男の口から聞くことができたなら――。そんな柄にもない思考が脳裏をよぎり、自らそれにかぶりを振る。
事実、シルヴァンは本人が思っているよりも、そしてフェリクスがそれまでに思っていたよりも、ずっと臆病な手合いなのだった。怖いのだ。不可逆に変わってしまうことが。何かを手に入れるために、別な何かの壊れてしまうことが。今更元のように戻れもしないと、本当はわかっているくせに。
逡巡の果てに、フェリクスはその広い背中に回すべく持ち上げかけていた両腕を、力なく元の場所へと戻した。
「……だから、もう放せ。シルヴァン」
真意を暗に告げる胸の早鐘も、よもや厚い板金越しに伝わりはしまい。口では放せと言いながら、フェリクスはその後もしばらく、そこに身を預けたままでいた。