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炎、死神、籠の鳥

 瞼越しにもわかるほどのまばゆさに目を覚ますと、朽ちかけた雨戸の穴から光が漏れていた。朝になったのではない。覗いてみると、丘の上に聳える地主の館が燃えていた。炎が夜空を焦がし、あたり一面に積もった雪が惨劇の色をあかあかと映している。外が異様なまでに明るいのは、そのためだった。
 早くここから逃げなければ。
 男は窓枠から後ずさり、勢い余って床に尻もちをついた。冬の冷気に曝された床板は肌着越しにもぞっとするほどにつめたく、恐怖に竦んだ両手足はまったく別の生き物のようで、思うままには動かない。
 一方で思考は意外に冷静だった。貧乏暮らしの男やもめに、どうあっても守らなくてはならないような家財の類はない。死んだ妻の形見の着物さえ、食うに困って手放したくらいである。だから男の心配はもっぱら別の事柄に向けられていた。
 男はもう一度外を見た。助けを求めるべき地主の館が燃えていたのでは、もうどうにもしようがない。私兵は逃げたか殺されたか、一帯の田園もこれでは最早焦土も同然だろう。目の前のこの光景は、水呑百姓の男にとって世界の終わりにも等しかった。もはや誰も自分を守ってはくれないのである。
 男の家は幸いにして風下ではあるものの、この分ではいつ何時火の粉が及ぶともわからない。こんな時だというのに隣家が妙に静かなのが気にかかった。そこには村でも有名な性悪爺がひとりで住んでいるのだが、さっさと逃げたのか、あるいはまだ寝ているのか。いずれにしろ他人の心配をしている場合ではない。そう思って、男はようやく立ち上がった。相手が性悪爺などであればなおさら、そこにかける情けなどはない。
 男はもつれる脚を老馬に鞭打つ御者さながらに奮い立たせ、なけなしの食料に毛布や欠けた手斧などごくわずかな所有物を背負袋にありったけしまい込むと、古びた短剣を腰布に挿した。男に戦いの心得はないが、いざという時のお守りくらいにはなるかと考えたのである。それから着古した冬外套を羽織り、凍えるつま先を穴の開いた長靴に突っ込んで、あとは転がるように家を出た。
 途端、雪のしめり気に冒された煤と灰のにおいが鼻をつく。男は無心に足を踏み出した。遠く、丘の向こう側から、戦いの音が地鳴りのように響いてくる。やはり、館は何者かに襲撃されたのだった。
 今すぐ逃げなければ。――でも、どこへ?
 行く宛などあろうはずもない。隣村までは馬でも二日はかかる。この季節に徒歩では行き倒れる可能性の方が高いだろう。たどり着いたところで、手を差し伸べてもらえるとも限らない。近年この地方は不作が続いていた。特に去年は凶作寄りの不作だったから、よそ者を助けるだけの余裕はおそらく寒村のどこにもない。
 絶望が何より重い枷となって、ほどなく男の歩みを止めた。ああ、もう終わりだ。何もかも終わりだ。膝から雪上に崩折れて、男は呆然と燃える館を見ていた。近くでかちかちと奇妙な音がしたが、それは男の歯が打ち合わされて鳴っているのだった。そうして震えてならないのは恐怖のためなのか、はたまた骨身に沁みる冬の冷気のためなのか、彼にはもうわからなかった。
 男が何か思い出したように顔を上げると、館はまだ燃えていた。棟のひとつが焼け落ちて、その黒々とした骨組みが力尽きるように瓦解する。代わって残光が弾かれたように宙へと舞い上がり、逃げ場のない男は、それを不思議に美しいと思って眺めていた。
 男には財らしい財がなかった。賊が来て掠奪されるものといえば、精々今身につけているものと、背負袋の中身に、先程のあばら屋。それとこの命、借り物の田畑を懸命に耕し、働きに働けど貧しく、やむなく妻の形見を手放してまでも繋いできたこの命くらいのものである。
 もういいじゃないか。そんなものでも欲しいというならくれてやろうじゃないか。自分が自棄やけを起こしていることくらいは男にもわかっていたが、さりとて何ができるというわけでもなかった。男はまったくの無力であり、ゴーティエ辺境伯の名代としてこの周辺を治める地主の館が燃えている時点で、もう何物にも縋りようがないのだった。
 ふと隣家の方に目を遣ると、半開きになった扉が風に揺れている。そこはもぬけの殻だった。あのびっこで骨と皮ばかりの爺が、果たしてどこまで逃げられるものだろうか。森には餓えた赤狼の群れがいるというのに。もはやすべてを諦めている男には、この期に及んで望みのない生にしがみつこうとする隣人が、以前にも増して浅ましく、汚らしいものに思われた。
 そうしている間にも、大地に轟く音は徐々に大きくなっていた。時折はまばらに悲鳴のようなものも聴こえた。
 近づいてきているのだ、容赦のない破滅が。男は未だ動けずにいたが、もとより動く気もなかった。これこそ死神の足音に違いないと、男はある種の感慨に耽りながら目を瞑った。瞼の裏にぼんやりと白いものが浮かび上がる。それは男の妻の、病に窶れきった顔だった。
 妻は死に到るその時までも信心深く、この集落の生活に似合いの倹しい女だったが、女神が彼女の祈りに応えることは終ぞなかった。暮らし向きはいつまでも楽にならず、妻はとうとう病に冒された。医者を呼ぶ金もなく、高熱で朦朧とする意識の中、妻は虚空に痩せこけた手を伸ばし、お頼みします、お頼みします、としきりに繰り返しながら逝った。その末期の様子を間近に見ていた男は、妻の死と同時に己が信仰をも失うことになった。苦しむ妻と遣り場のない男の悲しみとを永遠の安寧に抱きとめたのは、慈愛に満ちた女神のかいなではなく、山颪よりもつめたい死に他ならなかったからだった。

 すぐそこで、空気が動いた。男が再び目を開けると、正面に何者かが立っている。夢か現か、ぼんやりとした意識のまま、男はその人物を仰ぎ見た。
 使い込まれ、鈍く黒光りする甲冑。手に握られた戦斧。武人らしい巨躯。激情がそこに凝固したかのような形相。そして何より目を惹くのは、逆巻く炎にも似た紅い髪。その姿は賊というよりは落人のようであったが、少なくとも私兵のひとりではないことは確からしかった。身に纏う雰囲気が、それにしてはあまりに剣呑に過ぎたからだ。
 地主の館であったものは、この人物の背後で今や壮大に火を噴いていた。かろうじて残っていたもうひとつの棟が、いよいよ崩れ落ちようというところだった。その最期の爆発的な輝きが、男の眩んだ目には後光のようにも見えていた。
 低い声で、落人が言った。
「命乞いに出てきたのなら、聞いてやらんでもない。お前はどうしたい。言え」
「お、おれは助かるのですか」
 男が吃りながらもそう尋ね返した時、それまでどうにか永らえていた棟が凄まじい音を立てて崩壊した。明暗の入り混じる夜空に、無数の赤い星が散る。その光景は到底この世のものとは思われず、男の運命にきたる終末を連想させた。
「助かるか、ね」
 言いながら、目の前の人物はいかつい顎をしゃくった。朽葉色の瞳は火と燃えていて、その声には根の深い侮蔑の響きがあった。
「助かりたいなら、お前がお前自身を助けろ。どうすればいいかくらい、わかるだろうが」
 わからない。
 狼狽、困惑。答えに窮して、男は黙って俯いた。正しい答え、、、、、を差し出せなければ、この死神は即座に自分の首を刎ねるだろう。いや、この問答に戯れ以上の意味はなくて、何を言ったところで無駄かもしれない。
 男はもう一度、目を瞑ってみた。輪郭もおぼろな青白いものが、暗やみにぼうっと浮かび上がる。愛した妻の死に顔を前に、男は静かに意を決した。
 震える手が、腰の短剣を抜いた。それからその柄を、指の感覚がわからなくなるほどに強く、強く握りしめて、そして――。

 ◇

 くすんだ銀の光が一文字に走り、ごとり、と頭が転がった。赤毛の頭目は取り残された胴体をぞんざいに蹴倒すと、血の色に染まりゆく雪の上に唾を吐いた。
 男が持っていた短剣はとんだなまくらで、こんなものでは致命傷に到るわけもない。逃げ出せば背後から斬り捨て、向かってきたら褒めてやろうと思っていたが、期待に反して男はそのどちらも選ばなかった。自刃を試みたのである。マイクランが斧を振るったのは死に損ないの介錯をしてやるためではなく、ただ目の前の不様に耐えかねたからに過ぎなかったが、そのことが彼を無性に苛立たせていた。
 少しは骨のある奴がいたかと思えば、どいつもこいつも。
「てめえも王国の男だろうが。みすみす死ぬくらいなら、戦え。戦って死ね」
 誰彼にともなく怒号を飛ばして、マイクランはまだ残り火の燻っている丘の上を見た。
 錯乱した地主が自ら火を放った館は無惨に燃え落ち、既に跡形もなくなっていた。

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