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狙い過たず

 一泊二日の出張研修から帰ってくると、玄関先に大きな靴が慎ましやかに揃えてあった。合鍵をやったから、それで早速留守番に来たのだろう。靴の趣味といい、ちゃんと下座に寄せて置いてあるのといい、その様子のいかにもらしさに尾形はふっと笑みをこぼした。スーツケースを自分よりも先に家へ上げ、ちらと廊下の奥を見る。が、密かな期待に反して出迎えの現れる気配はない。
 待ちくたびれて眠ったのか、と尾形はひとり首を傾いだ。まあ、そういうこともあるだろう。考えながらも尾形は暫しそこに座り込んでいたが、やがては待つ甲斐のなさそうなことを悟って、窮屈な革靴をぞんざいに脱ぎ捨てた。そして少し思案してから、勇作の靴の隣にそれを揃えた。すると思った通り、壁際に並んだ二足はそれ自体、仲の良い兄弟のように見えるのだった。とはいえ、弟の方がひと回りも大きいのだが。
 正直なところあまり趣味ではないネクタイの結び目に指をかけてほどきながら、尾形はただいまも言わずに部屋の扉を開けた。それは眠っているなら起こしては悪いという気遣いが半分、独り者に特有の不精のような意地のような何かが半分だったが、一歩踏み込んだ瞬間、鼻をつく酒精の匂いに尾形は思わず眉を顰めた。
 留守番ついでに片付けをしたと見えて、辺りは尾形が出かけた時とは比べ物にならないほど秩序立っていたが、それだけに炬燵の上に城塞めいて立ち並ぶロング缶――手っ取り早く酔うために、尾形が味を度外視で買い置いていたもの――が悪い意味で目についた。そして、まったくらしくないことに、勇作はそこに突っ伏して眠っていた。
「勇作さん」尾形はその肩を軽く叩いて言った。「風邪ひきますよ」
 返事はなかった。綺麗に刈り込まれた襟足に視線を落として、尾形は小さく溜め息をついた。勇作は尾形の知る限りきわめて酒に強かったが、比較的短時間でこれだけ飲んだとすればどうだかわからない。しばらく揺すっていると、伏せられた顔のあたりから、う、と小さな呻き声がした。
「勇作さん」
「……ください」
 よく聴こえない。尾形は傍に屈んで、その譫言めいた言葉に物理的に耳を傾けた。
「何です。水ですか」
「キス、してください。兄様」
 尾形は酔っ払いの戯言には構わず、黙ってそこから立ち上がった。
 ネクタイをするりと抜いて襟元を寛げると、窓辺を覆うカーテンを開け放って、上着をソファに放り捨てるそのままの足で台所へ行き、勇作用にとっておいた愉快な柄のマグカップを戸棚から取り出す。確か口座開設の粗品であったと尾形は記憶している。そこに八分目まで水を汲んでから踵を返し、それを卓の上にごとりと置いた。
「どうぞ」
「……」
 腕の上に覗いた顔半分が、これじゃありません、とでも言いたげな視線を送ってくる。それはそうだろう。尾形は勇作の斜向いに腰を下ろすと、ロング缶のひとつをつまみ上げ、軽く横に振ってみた。ごく微かな水音こそすれ、中身は当たり前に空だった。
「随分、飲みましたね」言って、極彩色の空き缶の数々に軽蔑の目をくれる。「こんな安酒も安酒ばかり、ただ浴びるようにして……まったく、あなたらしくもない。おかげで今夜の俺の分がありませんよ。どうしてくれるんです」
「兄様」
 催促のように勇作が呼ぶ。尾形は敢えて勇作の方を見なかった。
「よしましょう、そんな悪い冗談は。いい年して、実の兄にそんなものをねだる弟がどこにいますか。西洋人でもあるまいに」
「兄様、」催促の語気が強くなる。
「何か、忘れたいようなことでもありましたか。この様子からして、うまくいかなかったようですが」
 勇作は問いに答えなかった。
 顔に出さぬのは昔から得意で、尾形は素知らぬ振りをしていた。勇作が自分に対して親愛以上の何かを抱きつつあることにも、よもや気付いていなかったわけではない。本人の自覚がどこまでかはさておいて、目は口ほどに、時にはそれ以上にものを言う。常の視線を見れば、それは自ずとわかることだった。日常のふとした瞬間、清新を絵に描いたような眼が痛ましげに細められるさまに、まさかとは思ったが、尾形は恋を読み取った。
 ただ、結局はその恋とやらを甘く見ていたのだ。そんな錯誤めいた感情のためにこの適怨清和、高潔無比、上に馬鹿のつくほど真面目な弟がこんな醜態を曝すことがあろうとは、尾形は夢にも思わなかった。何せ、腹違いと言えど正真正銘の兄弟である。これは一過性の熱病のようなもの、いずれは諦めるものとばかり、だから乞われるままに合鍵も渡していた。兄として、これまで大抵の我儘は聞いてやっていた。勇作にとって良き兄でありたい。再び出会ったあの日から、今生の尾形はそれだけを願ってきたのだった。
 その顛末がこれだというから、ままならないものだ。もう随分会ってもいない父の憮然とした顔をありありと思い描きながら、尾形は自分の前髪を撫でつけて、それから一段低い声で言った。
「花沢の家に、子はあなたひとりだ。おわかりでしょう、そのことの意味は。大切な世継ぎの咲かすのが、徒花であっていいはずはないんですよ」
「……だからこそ、です」言って、勇作は静かにカップを置いた。その目はだいぶ嵩の減った凪の水面を見つめている。「大局の前では一度や二度の口づけなんて、些末なこと。違いますか? 兄様」
「一度や二度で済みますかね」
 酒が入っているにしては(或いは酒が入っているからかもしれなかったが)御大層な物言いに呆れつつ、膝立ちになった尾形は空き缶を腕にかき集めようとした。その腕をすかさず勇作の右手が掴む。加減を感じるとはいえ、簡単に振り払えるほど弱い力ではない。尾形としてもまだ新品も同然のワイシャツを駄目にしたくはないと思い、抗議の視線を勇作に向けた。然しそこにある勇作の瞳は切実の色を一杯に湛え、無言の哀願を続けている。そうしてしばらく視線を絡ませた後、尾形は諦念のため息をついた。こうされてしまうと勝てないのも、昨日今日に始まったことではなかった。
 酔った勢いに任せるという風でもなかったが、やがては引き寄せられるまま、なし崩しに唇が重なった。邪魔な空き缶などすべて倒れるに任せ、尾形は勇作の好きにさせた。それもこれも抵抗するだけ無駄だと思ったからだった。が、勇作はこの期に及んで尾形の思うよりもずっと謙虚で慎み深く、背に腕を回した他は兄様、兄様と呼びながら熱っぽい唇をあちこち押し当てるのみで、矢鱈に膚に触れることも、敢えて閉じ切らずにおいた合間に舌を挿れるようなこともしない。
 それでさすがの尾形もじれったくなり、明治の世ならともかく、この自由恋愛の時代に花沢家は一体どんな教育をしているのか、と微かに酒毒の匂う腕の中で真顔になる有様だったが、同時に少し安堵もした。兄を力尽くでどうこうしようと思うほど、勇作は道を踏み外してはいないのだった。
 ほどなく羞恥と自責に耐えられなくなったらしい勇作が身を引く時を見計らって、「なるほど、些末も些末ですな」と揶揄するように尾形はぼやいた。随分と意地悪を言ったものだが、気の優しい勇作はむっとするわけでもなく、飼い主に叱責された犬ほども気落ちして、何も酔いだけのために朱くなったのではない面を伏せた。
「……すみません。その、俺からは恐れ多くて、」
「こうするんですよ」
 言うが早いか、尾形は勇作の顎に手をかけると、ぐいと自分の方を向かせた。意趣返しである。不意打ちにまるく見開かれる目、呼吸も忘れてただ上下する喉仏。容易いことだ、と尾形は笑った。互いの鼻先を掠め、ほとんどぶつかるほどの距離まで詰め寄れば、この先触れ合うものはひとつしかない。今にも噛みつくような素振りをすると、勇作は愈々観念したのか、その覚悟ほどもかたく目を閉じた。
 もっとも、尾形は弟の震える唇を奪うことはしなかった。こちらにはその気がないということになっている以上、純情をこの上弄んでは気の毒というものだし、兄の真意を知ってしまえば、勇作は舞い上がってえある将来も何も捨ててしまいかねない。そんな懸念が、どこまでも尾形の行動を躊躇わせていた。兄弟だからとか、男同士だからとかは実のところはどうでもよかった。本当は他の誰にだって勇作を渡したくない尾形がその想いの丈を打ち明けずにいるのは、何もそういう理由からではないのだった。
 周囲には先程の空き缶が粗雑に屍を晒していた。そこへ射し込む雲間からの一条の光。時も通り過ぎるのを躊躇うような静けさの中、勇作の長い睫毛が紅顔に柔な影を落とす。そういうものを間近に眺めていると、いつかもこうだったかと確かに思えて、尾形はその懐かしさに戸惑いすら覚える。あの頃は、すべてが目的のための手段でしかなかった。恣に操り、傷つけて、何もかも意のままになるかのように錯覚し、結局は何ひとつ自分の思い通りにならなかった。
 今はどうだろうか。もはや自問するまでもないことを自問しながら、勇作が瞑目しているのをいいことに、尾形はわずかに微笑んだ。きっと苦い笑みだった。そして少し退いてから、ゆっくりと上方に身を乗り出す。そうしなければ届かないその場所、もう決して撃ち抜くことのない左瞼――己が罪のしるしに、数瞬、やわらかに唇を触れた。脳裏を血飛沫の緋が過ぎり、記憶の暗やみに硝煙がたなびいた気がした。が、あの日のように寒くはなかった。陽の当たる頬も、唇に移った火照りも熱かった。
 そのうち勇作の眸が恐る恐るといった体で開いて、心配そうに尾形を見つめた。いたわりに満ちたまなざしの前に、自身が今どんな顔でいるのか、尾形にもよくわからなかった。わからないまま、静かに言った。
「……今も昔も、これが俺があなたにあげられる全部です」
 兄様はけしてそんな人じゃない。きっと分かる日が来ます。
 かつて涙ながらにそう言った人物は凶弾に斃れ、尾形もあの時の尾形百之助ではとうになかったが、この胸を灼く感情の名を、今ではよく知っている。だからその日は確かに来たのだろうと、むかし狙撃手だった男は贖罪の痛みの中で思っていた。

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