異世界転生した俺を破裂の槍が追いかけてきた
トール軍襲来の報も今日はなく、比較的穏やかに過ぎるはずだったアスク王国の昼下がりは、城の一角からのただならぬ怒号のために突如ぶち壊しになってしまった。
茶器や酒杯、読みかけの本、訓練用の武器などをめいめい放り出して急ぎ馳せ参じた英雄たちの見たものは、いかにも落ちた騎士といった風の男が凄まじい形相で召喚師の胸ぐらを高々と掴み上げ、ただの槍と呼ぶにはあまりに残酷めいた造形の長柄を喉笛に突きつけている様であった。
その業火のような怒髪、眉間を斜に走る深い刀傷、破れんばかりに決した眦――異界から多種多様な経歴の人材が集うアスク王国でも稀に見る凶相を前に、何ら躊躇なく得物に手をかけた者もいれば、たじろぎ出遅れる者、それらを早計だと嗜める者もおり、現場はにわかに騒然となったが、その場にいたアルフォンス王子が物を言わず皆を制した。
彼の蒼い視線の先には半ば宙吊りの召喚師、そして主の手を離れて力なく床に横たわる神器ブレイザブリクがある。それはつまり、この男が今しがた異界から召喚されたばかりの"英雄"であることを、少なくともその素質に能うものであることを示していた。
それからは誰も動こうとしなかった。が、兄の背中越しにおっかなびっくり状況を窺っていたシャロン王女が、やがて何かに思い至り、あっ、と小さく声を上げた。彼女を含めたこの場の数人には、今まさに無体をはたらいている男の見目、具体的にはその見事な赤毛と蜂蜜色の瞳に、はっきりと覚えがあった。その"彼"とは歳はひと回りほど離れているようだが、面立ちなども見れば見るほどよく似ており、血縁関係にないと考える方が不自然なくらいであった。
しかし、ならばどうして、この人とあの人はこうも違っているのだろう。
いたく純真なシャロンは記憶の中の優しげな眼差しを思い返し、そしてふたりの間に何か特別に複雑な事情のあることを察して、人知れず心を痛めた。この場で両者が鉢合わせなかったのは果たして幸運なのか、或いはそうでないのか。それは誰にもわからなかった。
「お兄さま……」
唇を祈るように噛み締めて、おずおずと兄の衣裾を握ったシャロンの震える手に、アルフォンスの大きく温《ぬく》い掌がそっと重ねられる。今にも泣きそうな顔を向けてくる妹に、兄は自らの緊張を解き、微笑みと共に囁いた。
「大丈夫だよ、シャロン」
このアスク兄妹のように互いに支え補い合う関係でこそなかったが、実際、マイクランとシルヴァンとは、言わばゴーティエという炎の株分け、実のきょうだいに他ならないのだった。
◆
闖入者たちの反応からこの人質の存外な価値に気づいていたマイクランだったが、しかし今はそれを利用してどうこうと策を巡らせるほど平静を保ってもいなかった。なにしろ今しがた討死したばかりの身である。間違いなく、マイクランは死んだはずであった。あの朽ちかけた塔の上で。
なのに生きている。止まっていた心の臓が動いている。破れた肺が呼吸をしている。意味がわからない。ここがどこかもわからない。
生前の激情を今なお引き摺ってもいる彼は、荒い息を吐きながら外野にぞんざいな一瞥をくれると、人質の襟元を握る手にいっそうの力を込めた。召喚師の喉から微かな呻き声が漏れて、王子たちの表情が俄に険しさを増したが、マイクランは意に介さなかった。
奴らに用はない。
用があるのは、この人質の方だった。
「ここはあの世じゃねえと抜かしたな」マイクランは今一度召喚師を詰問した。「なら、どうして俺は生きている」
何かしら情報を得ないことには、どうにも納得のしようがない。しかしながら、あいも変わらず召喚師はかぶりを振るばかりであった。
実際のところ、自らの死の記憶を持つ者がここアスクに生者として呼ばれるのはさほど珍しいことではない。英雄の選定に元の世界、元の時代での生死はさほど重要ではなく、あくまで資質が重要であるようだったが、召喚の儀には謎が多く、その者がいかなる理由で召喚されたかは神器の引き金をひいた当の召喚師さえも知り得ない、言わば神秘中の神秘なのだった。
ただ、そんな事情など知るはずもないマイクランは、望む答えを得られないことに焦れて怒鳴った。
「黙ってちゃわからねえだろうが。……命が惜しくないらしいな」
いよいよ槍の穂先が召喚師の喉笛に触れようという時、
「待ってください!」
シャロンが居た堪れずといった体で声を上げた。マイクランが咄嗟に向けた悪辣な視線から庇うように、すかさずアルフォンスが彼女の前に進み出る。マイクランは立ち塞がる王子を苦々しく睨みつけた。たったそれだけのことで、ふたりが兄妹だとわかったからだった。
「あなたの身に何があったのかは、僕たちにはわからない。でも、ひとつだけ確かなことがあります」アルフォンスは淡々と事実を告げた。「あなたはこの国を救う英雄のひとりとして、求められて此処に喚ばれた。それは疑いようのないことです。……だから、」
英雄。その言葉にマイクランは目を剥き、そして怒りに声を震わせて言った。
「ふざけるなよ、何が英雄だ!」
彼が激怒するのも無理はなかった。元貴族とはいえ、家を出た後は賊の頭目、"持たざる者"たちの首魁として、殺し、略奪、そんな悪行の限りを尽くしてきた身である。半分は生きるため、もう半分は運命という理不尽への復讐のため、食料も、金も、女も、欲しいものはすべて人から奪った。奪われた相手がどうなろうと知ったことではなかった。あまつさえ彼は実家の"遺産"を盗み出し、フォドラを揺るがすお尋ね者にまでなっている。そうして最後には権威ある大修道院の手の者によって討たれたのだ。
そこにいかなる理由があったとしても、それをまさか英雄などと呼ばれては立つ瀬がない。堕ちに堕ちてなお、そう感じる程度の良心をまだ持ち合わせていたのが、マイクランという男の不幸であった。
「俺は家と教会の連中を敵に回して、……あの忌々しいガキども、……そもそもだ、なんでこの槍がここにある? こいつは俺が、……そうだ、こいつが俺を……くそっ、思い出したくもねえ! 俺は死んだ人間なんだ! 余計な真似をしやがって!」
「そうだね。余計なこと……かも、しれない」
どこか痛みを得たように目を細め、俯き加減に呟いてから、アルフォンスは男の方へ毅然と向き直った。
「だけど、こうも考えられませんか。あなたの物語にはまだ続きがある。死がすべての終わりではないと、僕は思います。そう思わせてくれるような英雄たちに、僕は出会ってきました。それに……現にあなたは、今ここに生きているのですから」
「お願いします。わたしたちには、あなたの力が必要なんです」兄の影から歩み出たシャロンが、その隣に並んで言った。「そして、わたしは……わたしはあなたとも、お友達になれたらいいなって思います。……駄目、でしょうか」
マイクランは目の前の何もかもを否定するかわりに、槍を握った拳を、くろがねの篭手を、すぐ側の石壁へと力任せに叩きつけた。
王女のか細い悲鳴をかき消して響き渡る轟音。そしてその場に訪れる静寂。
壁はひび割れてへこみ、年季物の篭手も衝撃のために少なからずひしゃげていた。マイクランは何かを諦めたように槍を放り捨てた。骨とも金属ともつかぬ素材で出来たそれは、見た目よりも随分と重い音を立てて床の上を転がった。
「余計なこと、しやがって……」
不意に手を離された召喚師が、その横にどさりと尻もちをついた。
そこに駆け寄ったアルフォンスとシャロンは、男の眼から怒りの色が引いていくのを見た。
「……なんで死んだ後にまで、こんな……」
マイクランは震える拳を握り込み、自らの死の遠因となったその槍――ゴーティエ家に伝わる"遺産"、紋章という名の運命に愛された者の象徴、家督のしるし、とうとう己が所有物にはならなかったもの――をじっと見ていた。
激情はとうに過ぎ去って、もう長らく忘れていた孤独のつめたさが、彼の胸中に音なく落ちた。