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異界の夏の蜃気楼

 空の青《あお》、海の蒼《あお》、山の碧《あお》、色あざやかに視界を染めるアスクの夏。玉の膚《はだ》をあらわにしたうつくしき夏の蝶たちが、水際をまろぶように戯れている。そこにあっては寄せては返す波さえもが楽しげで、故郷ファーガスの地にはおよそ存在し得ないその光景の目映《まばゆ》さに、シルヴァンは思わず両の目を細めた。
 この世界は"紋章持ち"に対して何を求めるわけでもない。だから今のシルヴァンは自由の身であるはずなのだが、それでも己がゴーティエの裔以外のものになれる気はしないのだった。どれだけ名残惜しもうとも夏はいつかは終わるもの、夢もいつかは醒めるもので、英雄としてここに呼ばれた他の者たちも、その時が来れば元いた世界に帰るのだ。そしてその時にシルヴァンの帰るべき場所というのはやはり青獅子の学級ルーヴェンクラッセ、我らが主君ディミトリの下、ゴーティエ家の嫡子としての宿命以外にはないことは、彼自身がいちばんよく知っている。
 召喚師がくれた、ひと夏限りの甘い夢。その熱量のある幻の中ですら我を忘れることのできないことを自嘲しながら、シルヴァンは浜辺の出店で少し気取ったような飲み物を注文した。ひとりで、ふたり分。鮮烈に過ぎる異界の夏、それに芯から酔いしれることはできずとも、同じように酔った振りをしてくれる酔狂な誰かと、今ここで出会うことができたなら――そんな叶わぬ願いを、それらに託して。

「おい」
 その実あてなく熱砂の上へと踏み出そうとしたシルヴァンを、背後から耳慣れた声が呼び止める。彼が振り返った先にいたのは、白い日傘をさしたフェリクスだった。
「どこへ行く」
「どこって……それは見りゃあわかるだろ、なあ?」
 シルヴァンはおなじみの軽薄な笑みを浮かべて、その手にある二脚のグラスをフェリクスの渋面の前へとこれみよがしに翳《かざ》してみせた。頂上を乳白色に曇らせた、目にも鮮やかな翠の液体。底の方から無数の泡沫がふつふつと立ち昇っては弾けるように消えてゆく。
 店にあった品書きには、メロンフロート、と載っていた。明らかに人工的なその色を見ればわかることではあるが、その名に反してメロンは使われておらず、しかしどういう訳かアスクではそれが当たりのことであるらしかった。買う方も皆わかっているから、それで詐欺になったりはしない。言わば公然の紛い《イミテーション》なのだった。
「どうよ、洒落てるだろ?『お味はもちろん、見た目にもこだわり抜いたウチの看板商品は女の子受け間違いなし! お兄さんがこいつを持ってたらそれはもう角を得た天馬!』ってあそこの店主が太鼓判を押すもんだからさあ。そこまで言われちゃ、俺としても試してみない手はないわけよ」
「見ればわかると言いながら、ぺらぺらとよくしゃべる口だな」
 フェリクスは眉間に深い皺を寄せて毒づいた。
「どれほど飾り立てたところで、所詮は色つきの砂糖水なのだろう、そいつは。もっとも、見てくればかりで中身の伴わん貴様にはこの上なく似合いの品だろうがな」
「おいおい、今日はいつになく辛辣だなあ、フェリクス。この渚の色男《圏》になんつう言い草だよ。ま、あとで何か奢ってやるから機嫌直してさあ、とりあえずはお前も俺と、」
 一緒に女の子でも口説きに行こうぜ。
 いつものように、シルヴァンがそう続けようとした時だった。
「……あっ、おい、やめとけよ。お前、甘いの駄目だったろ」
 何ら迷いなくグラスの片方を掴んだフェリクスの、一歩も退かぬ剛情なまなざし。それに正面から射抜かれて、寄越せ、と強請られるまでもなく、シルヴァンはあっさりとその意に従った。フェリクスは小さく鼻を鳴らすと、ひったくった玻璃の器から伸びる管へと口づけた。
 その喉笛の二度、三度と上下するさまを、シルヴァンはもの言わず眺めた。年少の幼なじみの薄い肌はこの炎天下にあってひときわ生白く、どこの誰から借りたのか(少なくとも彼の趣味でないことは明らかだった)、繊細な透かし編みの日傘が不思議とよく似合った。
「甘すぎる」
 ややあってそうこぼしたフェリクスの表情は、その言葉とは裏腹にひどく苦々しい。
「それってのは、飲み物が? それとも、俺が?」
 シルヴァンの質問にフェリクスはいっそう顔をしかめた。
「阿呆、両方だ。本気で女を口説きに行くつもりなら譲るな」
「有無を言わさずひったくっておいてよく言うぜ」
「手を放したのはお前だろう」
「はいはい。ま、飲まれちまったもんは仕方ねえし、これひとつ持ってたって何にもならねえし。俺もこいつで一服しようかねえ」

「口直しに串焼きでもおごってやるよ」「さっきイングリットの奴から聞いたんだが、あそこの店、うまいんだと」

「はは。言っとくけどな、俺はちゃんと止めたんだぜ?」
「こうしなければ、お前はこれを手にふらふらと女から女へ飛んで回ったろう。異界に来てまで騒ぎを起こされるのも、そこに巻き込まれるのも御免こうむる」
「」
 グラスの残りをひと息に飲み下し、目も合わせずにフェリクスはぼやいた。甘いもの嫌いのフェリクスにとって、砂糖水にさらに氷菓子を載せたこの甘露を飲み干すことは苦行以外の何物でもなかったろう。

 不意に落ちた沈黙の中、シルヴァンの手に残されているもうひとつのグラスは、今やすっかり汗をかいていた。容赦なしに降り注ぐ真夏の日差しは強く、まだら模様になりゆく色水の中、溶かされた氷が擦れ合って微かな音を立てる。
「えっ、……と……それは、その……どういう、」
「まだわからんか」
 仕方のない奴だ、とフェリクスは口をつんと尖らせて、頭ひとつ分高いところに掲げ直した日傘の影に、動揺するシルヴァンをそっと迎え入れた。そうされて初めて、シルヴァンはその傘の殊のほか大きく広いことを知ったのだった。
「お前は俺だけ騙していろ」

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