種を蒔く人
ゴーティエの執務室は、ひとりでいるには少し広すぎるつくりだった。
戸の軋む音がするたび、シルヴァンは何か予感めいて面を上げてみるのだが、夜更けの客人はいつもきまって隙間風であった。時間を考えれば無理もない。空を征く月はとうに航路の半ばを過ぎて、夜番の者以外はとうに眠りについているはずである。ただ、訳もなく人恋しい夜の一晩や二晩はきっと誰にもあるもので、この辺境伯シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエにとっては、今宵がまさにそのような夜なのだった。
この時期のゴーティエの風物詩、遠路はるばるスレンの地を渡ってくる山颪が容赦なしに吹きつけて、鎧戸越しにもびりびりと窓を震わせている。天馬の節もいつの間にやら末に近い。この大風も今だけだ。これが止んだら、遠からず春の足音を聴くこともできるだろう。そんなことを考えながら、シルヴァンは煌々と燃える暖炉の上に目を遣った。
季節が何度巡っても、折れた剣は折れたまま、物言わずそこに掛かっている。
いつかこれが城に届けられたのも、こんな乾いた風の吹く頃だった。胸の痛みに、シルヴァンは目を細める。その時の記憶とそれに紐付く感情は今も、思い出す、というほど遠いものにはなっていない。
古式ゆかしい【獅子王の蒼】の天鵞絨《びろうど》に包まれて、それはゴーティエにやってきた。
鍔迫りの最中にでも折れたと見えてその断面は潔く、剣は武器としての生命を既に終えていた。それが意味するところはひとつであり、剣身に然《さ》りげなく刻まれた"幸福《felix》"という銘を見るまでもなく、シルヴァンにはそれが幼なじみの遺品と知れた。
以来、それはシルヴァンの仕事場にこうして飾られている。居た堪れなかったのか、かつての彼を知る家臣の中には修復を提案する者もあったが、ひとたび折れた刃は接いだところで元のようには戻らない。すべて熔かして打ち直したとしても、それで錬鉄の組成が変わってしまえば似て非なるなまくら《、、、、》と化すだけであるから、シルヴァンはそこに何ら手を加えることをしないできた。
どういう経緯で剣が届けられたのかは、終ぞわからないままだ。が、少なくともフェリクスは得物を自らの墓標にしておくつもりも、故郷フラルダリウスへ帰してもらうつもりもなかったのだろう。まして、これがくだんの約束を違えた詫びであるはずはない、とシルヴァンは思っていた。
『無血で勝ち取れる平和があるというなら、それを証明してみせろ』
『戦いの場が減り、俺が傭兵として食いっぱぐれるようになったなら……その時は、貴様のせいだと思っておく』
その言葉が最後になることを互いに予期しながら、そうしてふたりは右と左に別れたのであったから。
ぎい、と鈍い音がして、振り返ると木戸が少し開いていた。もちろん幽霊などの仕業ではない。シルヴァンは安堵とも落胆ともつかぬため息をついて、いい加減にがたの来ているそれに扉止めをかけることにした。感傷に耽ってばかりいても仕事は進まない。今度こそスレン酋長宛の書状に集中しようと決心してのことだった。
大戦後、統一国家からの助力もあり、シルヴァンはゴーティエ代表兼フォドラ特使として辛抱強くスレンとの交渉を重ね、今日まで休戦状態を維持することに成功している。
双方の闘争と遺恨の歴史を思えばそれだけでも相当の外交成果と言えなくはないが、辺境伯位を継いだシルヴァンはさらにその先を見据えて動いていた。ファーガス以北に常につきまとう食糧問題の恒久対策(それは魔導学院、そしてスレンと旧王国領の連携によって初めて実現する)を切り札に、両者の講和を取り付けようというのである。
それが叶えば、これまで不倶戴天の間柄だったゴーティエとスレンは晴れて協調の道を歩むことになる。そしていつか争いの理由それ自体がなくなってしまえば"抑止力"としての遺産や紋章持ちはお役御免、後の世代がシルヴァンとマイクランのような目に遭うこともない。
互いに憎み合うことをやめて、運命から自由になる。
一朝一夕で成し得るものでもないだろうが、それこそがこの理想家の不断の夢なのだった。
シルヴァンは今一度、壁に掛けられた剣を見遣った。
剣士の魂は折れてなおも美しく、俺は生きたぞと言わんばかり、確かな存在感を持ってそこに在る。在り続ける。シルヴァンは今はもう悪態をついてはくれない幼なじみに、声なく心で語りかけるのだった。
(証明してやるよ。お前も、俺も、間違ってなかったんだって)
隙間風の来訪が止んでしまうと、厄介なことに、今度は窓からの音の方が気になった。毎年のことではあるが、城壁を乗り越えた挙げ句にこれだけ厚い鎧戸をがたがた言わせるのだから参ってしまう。シルヴァンは樫材の机上に頬杖をついて、この嵐の後に来る春のことを想った。
どんなに長い冬もいつかは終わり、雪融けの時を迎えることを、この土地に生まれ育ったシルヴァンはよく知っている。根雪もやがて小川のせせらぎとなって、若い緑をやわらかに芽吹かせる。今はまだ空っ風の吹き荒ぶゴーティエとスレンにも、そんな穏やかな季節が遠からず訪れるはずだ。そのためにできるだけのことをしてきたという自負が、シルヴァンにはある。決して平坦な道のりではなかったが、やり遂げるまで、あと少し。もう少し。
辺境伯は年月の刻まれた目元をわずかに緩ませると、羽筆の先を墨に浸し、改めて自分の仕事に取り掛かった。とうに寝静まった夜の城、あかあかと燃える暖炉の上で、今は友の剣だけが彼を見ていた。