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続・あなたのいるブランチ

 勇作が部屋に上がり込むようになって以来、台所という空間はほとんど彼の城のようになっていたが、かといって尾形に立ち入りを躊躇する理由はない。この部屋の主はあくまで自分なのである。
 冬の星のように明滅する青白い光の下、冴えない色のエプロンを頭からするりと着て、冷蔵庫から取り出した有り物を順に並べてゆく。食パン、卵、牛乳、バターの切れっ端。必要最低限のそれらを見下ろしながら、尾形は前髪をきちんと撫でつけた。そしてその手を水道で洗う。料理らしいことをするのは随分と久しぶりな気がした。最後がいつだったかも、その時何を作ったのかも最早記憶にない。が、今でも卵くらいは片手で割れる。
 深めの皿に割り入れた卵を、目分量の牛乳、匙ですくった砂糖と合わせてかき混ぜる。そうして出来上がった溶液にパンを浸す。下準備はこれだけだった。水分を失って少なからずパサついた生地がじわりじわりと黄金色に侵食されゆく様を、エプロン姿の尾形は無感動に眺めた。眺めながら考えていた。事の起こりはもう一週間も前の話だが、どうして異母弟を居候させるなどということになったのか、尾形には未だもってわからなかった。だから少しでも暇になるとそんなことばかり自問する。
 両親には話をつけてきたので心配無用、と勇作は言う。が、尾形にそのあたりの事情は何もわからない。もとより部外者の身では知る由もないのだが、立場の微妙さゆえ花沢家とはなるべく関わらずにおきたいと思っている尾形にとって、勇作は言わば勝手に転がり込んできた火中の栗であった。まさかそんなことで『父親への復讐のために花沢の跡取りを誑かした』などとあらぬ嫌疑をかけられては面倒この上ない。
 だからここへ置いてほしいとせがまれた時、尾形は勇作を無理やりにでも家に帰そうとした。無理やりといっても物理的な手段では文字通り力負けするので、尾形なりに言葉を尽くして説得、いや牽制した。俺の都合なんか知ったこっちゃないあなたはどうせ次の週末も訪ねて来るんでしょうから、それでいいではありませんか。こんな兄などのところにいたら、あなたのお父上が心配なさいますよ。そのようなことを再三言い含めた。結局は泣き落としを食らい、尾形の方が折れてやる他になかったのだが。
 あの後の抱擁ときたら、堅すぎて骨が軋むくらいだった。尾形は感情の色なく思い返す。一体何がそんなに嬉しかったのか。考えてはみるのだが、本来は素直で従順な勇作がそうまでして自分の元に留まりたかった理由を、身に孤独の滲みすぎた尾形は尚も見つけられずにいる。
 そうこうしているうちに、つけ置きの食パンは卵液をすべて吸い上げていた。四枚切りならもう少し食べごたえのあるものになったろうか、とつい思案してしまうのは勇作の影響だと気づいて、尾形は口を尖らせた。食べるのが自分ひとりなら六枚切りだろうが八枚切りだろうがどうでもよかったし、それ以前にこんなものは作りもしない。
 もっとも、尾形は勇作の食の好みをよく知らないので、品目は完全に材料の都合である。勇作は人のことは何でも訊きたがり、余計な話ばかりして、肝心なことを語らない。遠慮なのか、何なのか。家出の理由にしてもそうだった。
(だから、俺には花沢勇作がわからない)
 カウンターから徐ろに顔を出すと、時計の針が十一時近くを指している。休日の時間の過ぎるのは早い。仕事中もこうならな、と尾形は早々に頭を引っ込め、軽く熱したフライパンにバターのかけらを滑らせる。脂の焼ける時に特有のよい香りが鼻先をふわりと漂う中、尾形は金の色に染まったパンを一枚ずつ焼いた。
 これは焦げすぎても、焦げなさすぎてもよくない。両面にほどほどの焼き目をつけたところで軽く蒸し、皿に重ねて積んでゆく。勇作が買ったらしい真新しいフライ返しは先が広くなっていて、どこで見つけてくるのか、なかなか使い勝手のよい代物だった。
「もう十一時ですよ、勇作さん」出来上がったものを昨夜の残り物ともども卓上に並べながら、尾形は多少声を張り上げて言った。「いい加減に起きたらどうです」
 わっ、と隣の寝室から声がして、ばたばたと何やら物音の続いた後、ようやく勇作が顔を見せた。兄の前での見栄もあろうか、その早着替えぶりに尾形は感心する。おまけに襟のひとつも乱れていない。
「お、おはようございます、兄様。やっぱり、夜更しはいけませんね……」
「俺も今日は朝寝をしました。まあ、あなたほどではありませんが」
 この程度の嫌味が効く相手でないことは尾形もよくわかっている。案の定、勇作は照れくさそうに頬を掻くばかりだった。が、部屋に漂う甘い香りの正体を突き止めるやいなや、ぱっと目を輝かせて卓に駆け寄った。
「このフレンチトースト、兄様がご用意くださったのですか!」
「そんなに驚くようなことですか」尾形はふいと視線を逸らすと、取り澄まして前髪に手を遣った。「俺をなんだと思ってるんです」
「ありがとうございます」
 祝福された人間の笑顔は、尾形の眼にはいつも眩しい。その瞳に宿る黄金の実りを目の当たりにするたび、自身の欠落を照らし出されるような心地になる。が、それも以前ほどは気に障らなくなっていた。その訳を尾形は知らない。知らないなりに、何かが変わりつつあることを予感する。身のうちから、染み入るように少しずつ。
「ほら、顔を洗って飯にしましょう。コーヒーも、あなたから習った通りに淹れておきますから」
「あ、でも、これ以上兄様のお手を煩わせるわけには、」
 逸る異母弟を、いいから、と押し留めて尾形は続く言葉を探す。勇作の並ならぬ意固地をねじ伏せるためのそれは、これまで散々やり込められた甲斐あってか、案外すぐに見つかった。
「たまには、兄らしいことをさせてください」
 言って、エプロン姿の尾形は苦笑する――ああ、らしくないったらない。

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