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線非対称の執着

 埃っぽい部屋の隅。残響する水音。ふたりだけの薄闇の中、壁の際まで追い詰めた獲物を、その唇を、尾形はゆるく喰む。少しずつ角度を変えて、繰り返し、繰り返し。その間、勇作はまるで慈悲を乞うかのように目を瞑り、そっと息をつめている。
 感触を言葉通り味わいながら、尾形はその祈りの表情を上目に窺う――何も、弄ぶようなつもりはない。そんなことは考えないのが狙撃手というものである。が、こうして籠絡するまでの苦労の道行きを思うと、一撃で仕留めることはどういうわけか躊躇われた。土壇場で惜しくなったのだった。
 時には偶然を装って鉢合わせ、しかし時にはまったく作為なく、逢瀬とも思わず重ねた逢瀬。監視も兼ねてと言えばまだ辛うじて言い訳は立ちそうだったが、監視の方が主でなくなった時点で本末転倒であることは言うまでもない。ましてこの行為は仕事上の必然を、兄と弟としての境界をも軽く超えている。
 木乃伊みいら取りが木乃伊になるとはよく言ったもので、だから籠絡されたのは或いは自分の方ではないか、と尾形は自嘲めかして思うことがあった。世間擦れしていない勇作は遊女のような陳腐な駆け引きに堕すこともなく、仮に愛とでも呼ぶべき無形に対してどこまでも、いっそ目の眩むほどにも清廉真摯だった。兄の思慕をされるがまま受け入れたのもそのためだろう。しかしその穢れのなさこそが、尾形の目には魔性と映った。まばゆい光ほど深い影を作るものだと、そう信じて疑わなかった。
「あ、あの、」小休止の間に、勇作が口を開いた。「兄様は、……こういった技を、どこで学ばれたのですか」
 技、学ぶ、という場違いな響きが余韻に障って、尾形は鼻から息をついた。
「さあ、」素知らぬ顔で言って、今度は耳の程近くに鼻先を寄せる。かかる吐息に、勇作の肩がひくりと跳ねるのがわかった。「どこでしたかね」
 狭窄射撃や銃剣術とは訳が違う。これが技巧であるものか、というのが尾形の正直な感想であったが、何しろ相手は軍旗の担い手に選ばれるほどの才器、あの花沢少尉殿である。何も知らずともおかしくはない。尾形はその無垢を斟酌し、そして声なく嗤った。それを利用してやらない手はないと思われた。
 尾形は唇を触れずに元のところまで退いてから、もったいつけて「気になりますか」と訊いた。さり気なく鎖骨をなぞってやると、いじらしくも羞恥に耐えながら、勇作は俯き加減になって答えた。
「……はい」
「なぜです」
「私も、その……巧く、なりたいのです。与えて頂くばかりでは、兄様に申し訳なく……」
 歯切れの悪い言葉を落として、勇作は終ぞ尾形の方を見なかった。
「はは。それは謙遜というものでしょう」
 泳いだ視線のゆくえを目で追って、もっと上手くやればいいものを、と尾形はいたって冷静な頭で思う。この分別くさい恥じらいの下に、勇作は何か隠している。今まで誰にも見せたことのない、おそらくは自身ですらも知らない何かを。勇作の上気した膚を舐めるように睨めつけながら、尾形はその秘密を暴いてやりたいと思った。
「え、……あ、そんな、兄様っ、」
 思った時にはもう、身体は前に動いていた。案の定、ろくに抵抗しない勇作を磔にして、なおも独善だけが尾形の背を押す――その仮面の下を最初に暴くのは他の誰でもない、この俺であるべきだ。矢庭に表情をこわばらせる異母弟に向けて、尾形は慇懃に笑ったが、それは別に慈悲というわけではなかった。
「ご安心を。俺は充分、愉しんでますよ」
 のろく惑う顎を指ですくって、飛ぶ鳥を捕らえるごとく伸び上がる。交錯する視線。墜ちてゆく軍帽には構わず、先程までとは一線を画す貪食の烈しさで、尾形はその形の良い唇をさらった。

 口を塞がれようが、舌を絡め取られようが、息を継ぐことくらいはできる。にも関わらず、勇作は初心のあまり呼吸自体を忘れたらしい。さほど長くは持たず、頃合いを見て尾形は勇作を解放した。
「っは、あ、……兄様、」境界を取り戻した唇が、空気を求めて喘いだ。「……すみません。どうか、もう一度」
「足りませんか、まだ」濡れた唇をちろりと舐めて、蔑むように尾形は言った。
 肩で息をしながら、勇作はふるふると首を横に振って、それから涙に潤んだ目を伏せた。遅れて、震える指が口許を覆う。生娘もかくやというその仕草に、もっと吸われたくてそうするのか、あるいはその逆なのか、尾形は真意を汲みあぐねた。
「わ、私は、……」何度か息を呑んだ後、やがて決心したように勇作は言った。「兄様の与えてくださるものに、応えられるようになりたいのです。それだけが望みです」
 勇作の様子を見れば、未知の行為に怯えているのは明白だった。まさか、いいようにいたぶられている自覚がないわけではあるまい。にも関わらず、この期に及んで真心から発せられたと思しきその言葉は、尾形を狼狽させるに十分な威力を持っていた。
「教えてください、兄様。私はどうすれば、」
「言えませんね」感情の色を即座に消して、尾形は突き放すように言った。
 一体、こいつは俺の何になりたいのか。弟ではないのか。そう考えて、不意に何か昏い衝動の疼くのを感じた尾形だが、結局それには知らぬ存ぜぬの無心を貫いて、ややあってから、勇作の眦からこぼれる露を拭ってやった。
 切れ長の、甘さと涼やかさの同居する双眸が驚きに見開かれる。よこしまな色ひとつないその瞳から、尾形は目を逸らすことができずにいた。まなざしは一途で、指で触れた頬は、舌ほどではなくとも熱かった。見つめ合ったひとがたの中に、尾形はなおも影を探した。わずかにでもそれがあればと思った。が、はじめに期待したような暴かれるべき秘密、後ろ暗い劣情などはどこにも見当たらず、ただ、燃える血潮がその膚の下を通っているのだと知れた。
 正しさに身を灼かれるような感覚を前に、尾形は漸く得心がいった。
 こいつに影があるのではない。俺の存在こそが、この男の影なのだ。
「ああ、……兄様、」
 冷めていく尾形をよそに、勇作は切なげに眉を寄せ、己が心の臓のあたりに両手を置いた。尾形の目にはただ重ね合わされた手が見えるだけだったが、何か大切なものがそこに在ることを思わせる、そんな手つきであった。
「兄様を想うほどに苦しいのです、私は」
「苦しいのは、鼻で息を吸わんからです」
「あ、う、その、そういう苦しさでは……」
「知っておりますとも」真っ赤になって身悶える勇作に、尾形は淡々と語った。「あなたは俺を好いておいでだ。だから拒まなかった、なのにその兄からこの仕打ち。さぞ軽蔑も、幻滅もしたことでしょう。……その痛みですよ、そこにあるのは」
「そんなことは、」
「そんなことです」
 縋ろうとする手を軽く弾いて、尾形は有無を言わせなかった。
「そんなことを、俺は愛と呼ぶんです」

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