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融けない氷

 久しく御無沙汰していた兄と偶然に廊下で出くわした、ただそれだけのことがなんだか無性に嬉しくて。不躾だとわかっていても、すっかり舞い上がっていた勇作は握手を求めずにはおれなかった。
 しかし。
「……兄様、寒くはありませんか」
 思わず口を突いて出た問いに、兄はすぐには答えなかった。その人はいつもそうであるように超然として、余分な色のない眼差しを勇作に注いだ。傾きかけた陽が、血の気の薄い膚の上に複雑な翳を作っている。
 寒風の中を外回りされていたのだろうか、こんなに冷たくなっていては風邪を召されるかもしれない。重ね重ねの非礼は承知の上、勇作は人一倍辛抱強い兄の身を案じて、その氷のような手を自分の両掌でそっと包んだ。
 こういう時、兄はよく規律を持ち出して勇作を窘めたものだが、今回は意外にもそのようなことはなく、ふたりの手元にじっと視線を向けていた。振り払われぬことに安堵はしたが、兄弟とはいえこの歳まで別々に育ったということもあって、その目から考えの読めるほどには、勇作はまだ百之助という人を知らなかった。
 兄は、ややあってから「ああ」と薄く唇を開いた。底の見えない黒の瞳が、上目遣いに勇作を捉える。
「手の冷たいのは、昔からです」
「そうなのですか」
「なぜかはわかりません」勇作の疑問に先回りするかのように、兄は淡々と語を継いだ。「前に俺を診た軍医は血のめぐりが悪いのだと言っていましたが、それもどうだか。冷血だからと言われる方が、まだ腑に落ちたような気がします」
 そう言って兄は鼻を鳴らしたが、その目は少しも笑ってはいなかった。
 勇作は唇を噛んだ。部下に射撃の手ほどきをする時などはまるで熱心なのに、こういった諧謔癖のために、兎角、兄は誤解を招きやすい人であった。露悪的なのだ。兄の歩んできた道の険しさを思い、勇作は握った手にきゅっと力を込めた。その骨張った手は滑らかなところとがさついたところがまちまちで、矢張りまだ冷たかったが、ゆっくりと時間をかけて混じり合う体温が、ふたりの境界を少しずつにでも融かしていくような気がした。少なくとも、勇作の方はそう信じた。
 師団内にお前の兄がいる。師団長でもある父からそう知らされた時の言いようのない胸の高鳴りを、勇作は今でもよく覚えている。きっと生涯忘れないだろう。誰が何と言おうと関係なく、初めて対面したその日から、尾形百之助は勇作のたったひとりの兄だった。数多の賓客や使用人の出入りする広い屋敷に子どもは自分だけで、外に出たところで花沢の嫡男とばかりみなされる往年の寂しさを埋め合わせるかのように、勇作はこの近くて遠い存在をいつも傍に想うのだった。父を同じくする兄の前でだけは、勇作はただの勇作でいられるのである。
「……昔、母から聴いたことがあります」徐ろに面を上げた兄の、父によく似た目を真っ直ぐに見ながら勇作は言った。「手の冷たい方ほど、心は温かいのだそうです」
「そう見えますか」応じた兄の微笑みには、そこはかとない昏さがあった。
「ええ」
 だから迷いなく勇作は答えた。
「兄様はいつもお優しい。私のつまらない話を遮らず聞いてくださるのは兄様だけですし、今日も、思わずお手に触れてしまった私を、こうして咎めずにいてくださいました」
 その時だった。見つめ合った瞳が、微かに揺れたような気がした。それが気のせいでないことを確かめようと、思い切って真黒の淵を覗き込んだ勇作の手の甲に、何かひやりとするものが添えられる。見れば、それは兄の手のもう片方であった。
「何を仰います。あなたの方が、俺などよりずっとお優しいではないですか」
「! いいえ、……」
 弾かれたように顔を上げると、先程までとは打って変わって、兄はにこやかに笑っていた。が、その細められた目に喜色の一切はない。互いの温度差を不意に思い出した勇作は、そこに続く言葉を持たなかった。
 痛むのは膚ではないのだ。今はただ、兄を少しでも温めてあげたかった。分かち合いたかった。そうして、勇作は改めて目の前のひとの手を取った。この胸に宿る熱いものが言葉でなしに伝わることを、一途に願って。

「そろそろ、演習が終わります」暫しの後、兄は窓の外へ遣った視線を正面に戻して言った。「そうなれば、ここも人でごった返すでしょう。勇作殿。俺を案じてくださるのは結構ですが、人目のあるところでは、今回のようなことはどうか御勘弁願います」
「……はい、兄様」
 勇作はそっと兄の手を放した。触れ合っていた部分にぬるく心を残したまま、指の先が離れてゆく。このまま時が止まってしまえば、などとつい大袈裟なことを考えてしまう自分がなんだか可笑しくて、こんな時の顔をこの人にだけは見られたくなくて、勇作は束の間、下を向いたままでいた。
「それでは」
 形式ばった兄の会釈に、勇作は恭しく礼を返した。
 兄は淀みない足取りで横を通り過ぎていった。名残惜しくないと言えば嘘にしかならなかったが、この後の過密な予定をふと思い出し、勇作はそのまま兄とは反対の方へ歩き出した。営庭からの喧騒が、夕立を思わせる速さで近づいてきていた。
 薄ら暗い廊下の角を曲がって、階段を昇る。そうして初めて、勇作はせつなく後ろを振り返った。

 また、偶然にでもお会いできたら。

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