誰ヨリモ汝ヲ愛ス
好物を兄に横取りされたなら、いかに高潔なる花沢勇作とて機嫌を損なわないはずはない。ひとたび仮説を立てればそれを証明せずにはおれないのが尾形百之助という人の難儀な性分であって、その"仕事"は相も変わらず早かった。
勇作を助手席に乗せて郊外のドラッグストアに出かけた折、尾形はすかさず「自分の好きなおやつをひとつ買うように」と伝えた。もちろん、"ひとつ"の部分をハンドサインで強調することも忘れずに、である。万事に抜かりはなし、兄の思惑など知るはずもない勇作はいそいそとアイス売り場へ行って、ほどなく紅白の平たいパッケージを手に戻ってきた。遠慮がちにカゴの中に入れられたそれは、かつて冬季限定品だったが現在では通年販売されている、大福餅を模した二個入りの冷菓だった。店には氷もドライアイスもなかったので、ふたりは寄り道せずに家に帰った。
証明の機会はすぐに巡ってきた。その晩、尾形は風呂上がりの異母弟の座るソファの後ろに捕食者のしなやかさで回り込み、それから隣に並ぶようにして頬杖をついた。
「勇作さん。あなたの食べようとしているそれ、俺に半分くれませんか」
一寸、尾形は返事を待った。兄の頼み事を珍しいと思ったのか、振り返った勇作は蓋を剥がす手を止めてわずかに驚いたような表情をした。が、それも束の間の話である。数瞬の後、而してその白皙はいたって晴れやかに破顔した。
「ええ、もとよりそのつもりでした」
お楽しみに水を差されて、強がっているつもりか。片えくぼの尾形をよそに、勇作は蓋をすっかり剥がしてしまうと、中にあった桃色のピック(勇作の手にあると随分と小さなものに思える)を使ってアイスの片割れを取り出した。そうして、トレイに残った方をせしめるべく尾形が片手を差し出したのと、勇作がピックの先のアイスを差し出してきたのはほとんど同時のことだった。
「兄様、どうぞ」
どうぞと言いながら、勇作は掌中の何をも手放そうとしない。尾形はすっかり面食らって、自身の鼻先にあるものをまず検分し、次にその冷たさ粉っぽさの向こう側にいる人物をやや上目に見た。こちらをまなざす眸はいつにも増してきらきらしく、頬骨のあたりには薔薇色があわく差し、両端の持ち上がった唇はあくまで楚々として、それらの様子を総合するに、どうやら照れがあるらしい。
「ああ? ……」
そこでようやく異母弟の意図するところが知れて、尾形は開いた口が塞がらなかった。つまり直接食べさせようというのである。違う、そうじゃない。そんなつもりで強請ったわけじゃない。第一にそれをして誰に何の得がある――しかしそんな風に思っている間に、その塞がらない口は勇作手ずからの祝福、もとい大福によってすっかり封鎖されてしまった。いらんとも今更言えず、というかこの状況では何を言おうにもモゴモゴとしか喋れず、これでは山猫一匹、否、ネズミ一匹だって逃げられない。要は今の尾形に戦局を変える手立ては何もないのだった。
仕方なしに歯を立てれば、弾むようにやわらかな羽二重の食感。追って舌の上に広がるのは、淡雪を思わせるアイスミルクの甘いくちどけ。それらを難なく咀嚼し、呑み下しながら、尾形はそこにいる勇作の嫣然たる様をじっと見つめて、その意味するところをしきりに考えていた。これ久しぶりに食べたな、とも思った。
「おいしい、ですか?」
はにかんだ問いには答えぬままに、尾形は二口半でぺろりとそれを平らげた。もたもたしていれば勇作は何度でも甘味を自分の口元まで運んで来たに違いなく、尾形としてはこんな無様はもうたくさんであった。"化けの皮"を剥がしてやろうと思ったのに、勇作はこのアイスと同じ、外側はおろか中まで白くて清らで円満かつ甘いと来ている。それでどこに欠けたところなど見つけられようか。
「ずっと、こんな風にしてみたかったのです。夢がひとつ叶いました」
「……」
手持ち無沙汰に、尾形は自分の顎髭に落ちた白粉を指で払った。見れば返事もしてやらなかったにも関わらず、勇作は花の顔に柔和な笑みを湛えたまま、己の分のアイスをさも幸福そうに頬張っている。これには尾形も少なからず落胆した。まんまとお楽しみを半分にしてやったにも関わらず、当の勇作はそのことについて嫌な顔ひとつしないのである。
そして先の企みがまったく身勝手なものであった以上、間違ってもそんな澄んだまなざしを注いでいて欲しくはなかった。これまで数多の連中がそうしてきたように、己に向けられるのはいつだって軽蔑とか猜疑とかの濁った目であるべきだと尾形は棒鱈ほども堅く信じていた。弱者と見れば蹴落としにかかり、強者へは憎悪を募らせ、表向きにはどんなに取り澄ましていても、ちょっと鎌をかけてやればボロを出す。人間など端から碌なものではないのだ。なのに、この異母弟だけは一度だって思い通りになった例がない。
(お前に愛想を尽かされるためなら何だってする俺に、愛すべき価値などない)
"アイスな"だけに、と心の中で付け足して、尾形はもはや証明の手段を選ばなかった。半分で足りないのなら、すべて奪ってしまえばいい――尾形はソファの背越しに勇作の項へと手を回し、互いの視線の交錯した一瞬、すばやく下唇に噛みついた。勇作の手を離れた空のトレイとピックが下に落ちて、自重なりの軽い音を立てる。当然、平手か正拳のひとつやふたつは覚悟していたが、奇襲が功を奏してか、幸いにしてそれらが飛んでくる様子はなかった。
抵抗されないのをいいことに、尾形はそこを開けろと横着して、まだミルクの風味が残る舌をあわいに滑り込ませると、それからふたりの境界がすっかり溶けてしまうまで、互いの温度を丹念に混ぜ合わせた。口当たりはしっとり柔らかく、息を継ぐ度、馥郁たる香りが鼻腔を抜けた。やがて切れ長の眦から流星めいた滴がこぼれると、尾形はそれも味わった。"甘い男"は涙までもが甘かった。
「ご馳走様でした」
呆然としている勇作への、それは捨て台詞のつもりだった。突然こんな目に遭わされたのでは、さしもの勇作も怒髪衝天、さっさと荷物をまとめて出ていくに決まっている。それでいい。それでいいはずだ。尾形は自分自身に言い聞かせた。いずれこうなる予定だった。繰り返し、言い聞かせた。心の臓が早鐘を打つのも、触れていた部分が余さず熱を持っているのも、絡みつく舌の感触が忘れがたいのも、"もっと欲しい"と思うのも、おそらくは掠奪の効用(あるいは昂揚)に違いない。
「……知りませんでした」やがて勇作がおもむろに口を開いた。
ああそうだ、お前とも今日でおさらばだ。痛みなど何も感じない風を装って、尾形は自らに罰が下されるのを待っていた。今しがた穢したばかりの唇から飛び出すのは、一体どれほども醜悪な怨嗟の言葉であることか。しかしそれは一言一句間違いなく、呪詛として、或いは負の餞として、尾形の胸に深くするどく刻み込まれるのである――当の勇作が尾形のもとを去ろうとも、おそらくはエドマ層の氷楔めいて永遠に。
愛した人から憎まれる。"欠けた人間"の自分には、きっとそんなことが相応しい。地獄行きの判決文を聞き漏らすまいと、尾形の鼓膜は割れんばかりに張り詰めた。色の白い勇作は今や火の玉ほども真っ赤になって、些か興奮した口調でこう言った。
「兄様。ファーストキスというのは、本当に、本当に甘くて素敵なお味がするのですね」