長靴を履かない猫
秋の暮れ、黒ずくめのその人は何かの終わりを告げるようにして現れた。
年の頃は三十がらみ、風采堂々たる美男子の彼は名を鶴見篤四郎といい、百之助にとっては初めて見る生身の軍人、生身の将校、また自身を名指しで訪ねてきた唯一の客人であった。
追い返そうとした祖父母を逆に言いくるめ、座敷で百之助と初めて正対した時、鶴見は軍帽を脱いで恭しくも膝をつき、訛りという訛りを感じさせずこう言った。
「ああ、花沢閣下によく似ておいでだ。私は君に会いに来たんだよ」
不意に出されたその名に、百之助は動じなかった。父に捨てられ、世に隠されるように育った少年の関心はひとつ――花沢幸次郎から尾形百之助へ、この人物は果たしてどうやって辿り着いたのか。それだけだった。
何か問う代わり、百之助は握手を求めた。それが害意のないことを端的に示す方法だと知っていたからである。しかし差し出した手を鶴見は握らず、下からさっとすくい上げると口元に寄せた。それは思わず目を瞠るほども優雅な仕草だった。
唇はどこへも触れず、じきに離れた。
「これは何です」
「失礼、ただのご挨拶だよ」言って、鶴見はわずかに首を傾いだ。「君とは長い付き合いになるだろうと思ってね」
傍にある瀬戸の火鉢はよく燃えていた。が、柳眉の下から微笑みかける柔和な双眸、そこに宿る怜悧な光を見つめながら、百之助は膚に薄ら寒いものを感じていた。
「鳥撃ちが好きかな、君は」
日没前、祖父の猟銃を担いで畑に出た百之助に、鶴見はいたって朗らかに問うた。赤く燃える空の下、逆光を背負った鶴見の姿はそれ自体が影であるかのように暗く、用心深く目を細めてみてもその表情の一切は窺えない。
肩越しに振り返ることをやめて、百之助は愛想なく言った。
「わかりません」
「では、銃は好きかな」
「わかりません」
「なら仕方なく覚えたのか」
三番目の問いに百之助は答えなかった。何も図星だったからというわけではない。やりとりの間に百之助は膝射の態勢に入っていて、撃発の瞬間に呼吸をしていては狙いがぶれてしまうので、いつでも止められるよう黙っている必要があったのだ。
もっとも、頼んでもないのに仕込まれたのは紛れもない事実なのだが、幸いにして何を撃つかまでは祖父の教えに含まれていなかった。それだけは自分が決めていいことだ、と百之助は開き直るでもなしに思っていた。そうして自由に空を翔ける鳥ばかり撃ってきたのである。
そのうちに山向こうから複数の小さな影が飛んでくるのが見えた。鏃のような編隊を組んだ鳥の群れ。これを待っていた百之助は先頭の一羽にすばやく狙いをつけると、確信の鋭さのままに引き金を絞った――いつもより遠いが、当てられる。
乾いた銃声が山間に響く。
弾丸は過つことなく標的を貫き、他の鳥たちはたちまち散り散りになって逃げ去った。静寂の中をゆるやかに立ちのぼる硝煙の、嗅ぎ慣れた匂いが鼻をつく。ややあって、背後から感嘆のため息と拍手が聴こえた。
「大したものだな」
「……」
やがて獲物の回収のために駆け出した百之助の後を、鶴見も当たり前についてきた。草履に、長靴に、踏みしめられた枯れ草のカサカサと鳴る音はどこか恨めしげだ。山間の冬の訪れは早い。もうじきこれも雪の下になる。思いながら、夕星のちらつく秋の最後を少年は走った。撃つ前から正確に距離を測ってあるから、猟犬などいなくとも、百之助が仕留めた獲物の所在を見失うことはない。
百之助が林の中でそれを見つけた時、青首の亡骸は翼を広げた格好のまま、木の枝に絡んでぶら下がっていた。その様は磔のようでもあり、死してなお空に帰ろうとしている風でもあった。百之助は頭上のそれを無心に見上げた。まだ伸び切らぬ背丈でも、手を伸ばせばなんとか届きそうな位置ではあった。
「わからない、か」背後で鶴見がぽつりと言った。「だが君はそんなにも上手じゃないか。おじいさまの教え方が良いのもあるだろうが、そもそもが望まないことなら、果たしてそれほどにも上達するものかな」
百之助は振り返らなかった。その間にも肉ごと抉られた鳥の胸から赤いものがぽつり、ぽつりと滴り落ち、色を失った枯れ葉の上に消えない染みを作っている。普段は気にもしないのに、今日に限ってそういうものが目についた。
気づけばあたりはしんとして、鴉の啼く声ひとつしない。百之助の背中に、鶴見はなおも言葉を続けた。
「あるいは花沢の、軍人の血のなせる技か」
「そんなもの、」百之助はその台詞を鼻で笑った。「そんなものが何の役に立つというんです」
「役に立つとも」
温度のない声にぎくりとして、百之助は視線を水平に戻した。
「それが君の確かめたいことか」
一歩、また一歩と鶴見が近づいてくる。言葉で、または足音でそれがわかる。
「私の目的を知った上で、君は君の価値を試しているな。銃の腕前を披露したかと思えば、人気のない場所に誘い込み、そして全部言い当てさせて、……いけない子猫ちゃんだ。いや、山猫の子は山猫、とでも言うべきかな」
両の肩に手が置かれ、囁く吐息が生温かく耳に触れる。
「私と来なさい、百之助。私と利害が一致する限り、君の望みはすべて叶うだろう」
「先物買いというわけですか」
「いけないかね」
「いいえ。でも、あの家には他に子がない。おれが兵隊になると言えば、おそらく彼らは反対するでしょう」
「なに、そのくらいはどうとでもしてみせるさ。すべて君次第だよ。もとより君の家にとって薩摩は親子三代の仇。かくいう私も、幕末の動乱で辛酸を嘗めた長岡の出だ。復讐、などとわざとらしいことを言わずとも、わかってもらえると思うがね」
「あなたの下で、何をすればいいんです」
「鳥撃ちだと思うか」
「まさか」
ふ、と背後で笑う気配がして、促されるまま、百之助は負っていた猟銃を肩から降ろした。ボルトに載せた手の上に、手袋を外した鶴見の掌がするりと滑り込んでくる。広くなめらかな手は見かけほど冷たくはなかったものの、他人の温度に慣れていない百之助の膚はそれだけでも粟立った。されるがままに、引いて戻した。軽い手応えと駆動音があって、既に熱を失った空薬莢が地面の上を力なく転がってゆく。
百之助は次の弾を込めなかった。母の生きていた時分から鳥は一羽あればよく、また無駄弾を持ち歩くほど狩りが下手でもなかったから、弾はいつも出掛けに込めてくる一発しかないのである。もっとも、今日に限っては"もう一羽"余計に撃つ用意をしてきてもよかったのだが、百之助はそうしなかった。この目ざとい男が見逃すとは到底思えなかったからだった。
鶴見は銃を虚空に向けて構えさせると、百之助から身を離して傍らに立った。陽はとうに沈み、しかし月が昇るにはまだ幾許かの猶予がある。だから照門の先にはただただ夕闇と木立とが広がるばかりだったが、百之助は辛抱強く息を詰め、じっとそこを覗いたままでいた。父への道筋となる鶴見の次の行動を、目を凝らし、耳を澄まして待っていた。
「"人を狩る"時、どこを狙えばいいか知っているかな」
百之助は首を横に振った。
或いはあなたで確かめようと思っていた、とは言わなかった。
「では私が教えよう」
言って、鶴見は颯爽と正面に回り込むと、ちょうど初対面の時にもそうしたようにその場に跪いた。照準越しに視線が交わると向こうは笑みを作ってみせたが、端正な顔のつくりや表情の穏やかさとは裏腹にその眸は燐火のごとく炯々とかがやき、百之助をそこに捕らえて離さない。
ここを狙うのだよ、と鶴見が自ら銃口を導いた先は、彼の額、眉間のちょうど真ん中だった。
「"本番"はこれほど近い的ではないし、その的というのも無論私ではないが、」
諭す声はあくまで甘やかだった。ひりつく喉に、百之助は否応なく昂揚を自覚する。これが鶴見の言う本番であれば間違いなく目的の妨げになったろう。だが今、銃口は標的、もとい共犯者が直に握っている。
「百之助。……お前は当てられるな」
返事をする代わり、百之助は無言で引き金をひいた。空っぽの銃は火を噴かず、当然反動もなく、叩く雷管のない撥条が虚しく啼いたのみ、其れはふたりだけの弔銃であった。ただ、もとより人生片道切符、満たされることを知らず、故郷らしい故郷も持たぬ魂の孤児にとっては、己が何を失くそうが最早どうでもよいことだった。
「いい子だ」
凍てつく風が木々の間を吹き抜けて、指先に滲む汗を冷やした。
なおも鷹揚に微笑み、慈しむように銃身に口づけた鶴見の、その唇と指、そして上目遣いの妖艶なるを見て、聖者も死神もそう違いはないのだと、百之助は沈黙のうちに思っていた。