AtoZ: I Am the End
オメガが生殖の道具として厳しく管理される社会。花沢製薬の御曹司・勇作は、反アルファを掲げる地下組織に誘拐される。その首謀者は、自分を選ばなかった社への復讐を誓う腹違いの兄・尾形だった。オメガである尾形は復讐の一手として勇作を"汚す"ことで家の名に傷をつけようとするが、薬は効かず計画は失敗する。なぜなら勇作もまた――表向きにはアルファとして育てられながら――尾形と同じオメガだったからだ。
事の深刻さを理解しつつも、初めて出会った兄に対して穏やかな愛情を捧ぐ勇作。尾形はその甘さに苛立ちながらも、それまで誰にも触れさせなかった心を、やがて彼だけには明け渡すに至る。同じで違う傷を確かめるように、夜の逢瀬を重ねるふたり。それは復讐のためでも、赦しを与えるためでもなく、互いに"生き続ける"ために必要なことだった。
しかしその関係も長くは続かない。
競合会社の諜報員により勇作がオメガであるという事実が公のものとなったとき、
跡取りとしての地位は失われ、彼にはアルファとの政略結婚――実質的な終身刑が待っていた。
その彩色硝子は、一体どれだけの番をそこから見下ろしてきたのだろう。勇作は足がすくむ思いだった。自身が向き合わされているものの、圧倒的な重さと強さに。
「この者を愛すると誓いますか」
「はい」
張り詰めた空気の聖堂に、声の残響が長く尾をひく。
勇作は黙っていた。オメガの名や言葉は、この儀式には必要なかった。神父は「生涯」とか「永遠に」という枕詞を置かない。誓願も、新郎にしかさせない。〝アルファのあばら骨〟に過ぎないオメガには、アルファを愛し、その慈悲を乞う道しかない、ということになっている。首に結ばれた純白のリボンも、花嫁が家から家への"贈り物"だという証だった。
かくも美しき、予定調和の晴れ舞台。役者はもとより、ここでは観客の表情さえもが筋書き通りだ。白々とした大理石の照り返しが、目にだけでなく冷たい。
「では、誓いの口づけを」
言われるがまま、勇作はヴェール越しに相手の顔を見た。その細やかなレースの網目が、勇作には自分を取り囲む有刺鉄線のように思えた。オメガに生まれた事実を隠蔽され、跡取りとして、アルファとしての振る舞いを強いられてきた勇作は、ずっと籠の中の鳥だった。それが自分の運命だと諦めていた。もとより儘ならぬ身体である。「花沢製薬の御曹司はオメガ」が社内外で公然の事実となり、他家に売られる羽目になっても、きっとそれを嘆きすらしなかった――兄と出会うまでの勇作なら。
形だけの伴侶となる人物によって、目の前の御簾が捲られる。
「そう睨まないでくれないか」新郎がそっと耳打ちする。「悪い話じゃないだろう。君が晴れて"私のもの"になれば、君も御社も救われるのだから」
救われる? この場合の救いとは、何のことだろうか。
神父、会衆、目の前の新郎。
それから壁に彫られた天使たちも。
誰もが勇作を見ていながら、誰ひとりとして勇作を見ていない。
それはオメガという属性、あるいは補正具を外された円い軀に向けられた、断罪と値踏みのまなざしに過ぎないのだった。勇作は問われていた。一方的に、問われていた――『昨日まで嘘のアルファを演じていたおまえが、今更"オメガらしく"できるのか?』
(いけない。ここで私までもが目を閉じたら)
刺すような視線を全身に感じながら、勇作は身の震えを押し殺した。今ここで自分が自分を見放してしまったら、どうして兄に顔向けできるだろうか。強く気高いあの人なら、この息苦しさにも屈さずにいるに違いなかった。
(ああ、でも……)
最後にもう一度、会いたかった。
名前を呼んでほしかった。
そう思ってしまったら、乾いた胸に次から次へと想いが溢れた。
契りの相手は、兄がよかった。
偽らない姿を見せるのも。初めての口づけも。
全部、全部、兄がよかった。兄でなければ嫌だった。
――されどもう願いは叶わない。
ドレスの腰に手が回り、式場を飾る白百合の花にも似た、しかしそれより何倍も濃い、噎せ返るようなアルファの匂いが肺腑を満たす。脳が、揺れる。
「……っあ、……」
迫りくる新郎の瞳に、今いちばん見たくないものが映っていた。どこか惚けたような自分の顔。そのことが遂に勇作の芯を手折る。兄でなければ嫌だった。なのに、どれほど心が拒んでも、この身は宿命に従うだろう。そんな風に、出来ているのだ。
「あにさま、……たすけて」
そうして祈るだけが精一杯で、勇作は瞬くこともできなかった。
だってそんなことをしたら、涙がこぼれてしまうから。
偽善と欺瞞に満ちた息が膚を舐め、
よこしまな唇が勇作のそれに触れようとした、
まさにその瞬間。
轟、と彩色硝子が爆ぜた。
咲き崩れる瑠璃色の光。そこに華を添えて戦慄く金管のクワイア。燦めく欠片を雨と降らせ、天から墜ちたハレの日の黒鋼の獣が、掠火のごとくバージンロードを喰いちぎる。消えない罪の轍を刻み、重力をも捻じ伏せるパワースライド。その一閃のあとには、誰もが視線と言葉を奪われていた――式に「待った」をかけている、漆黒のライダースを纏ったもうひとりの花婿に。
張り詰めた空気は破れ、我に返った勇作の頬を、あとからあとから涙が伝った。仮面をしていても、その人が誰かわかったから。忘れるわけがない。恋歌のごとき、熱い鼓動のそのエンジン。
「誰だ貴様は!」新郎が怒りの形相で吼えた。「警備、何をしている! さっさとこいつを捕まえろ!」
黒衣の彼はそれを無視し、優雅とも言える仕草で壇上に右手を差し出した。監視者たちの目という目が、その先にいる勇作に注がれる。言葉通りの選択肢――完璧な式には、そしてオメガの花嫁には、あっていいはずのないもの。それが今、間違いなくそこにある。
ヴェールの下の花嫁は数瞬、目を瞑った。アイドリングの持続音すらどこか遠くに聴こえるほど、心の臓が烈しく脈打つ。
(――今走れば、すべてが終わる)
息を整えて、勇作はもう迷わなかった。腕を掴もうとする神父と新郎をすり抜けて祭壇から飛び降り、自分の脚で駆け出した。
石畳を跳ねるヒールの音に、空吹かしの咆哮が追奏する。拘束具じみたドレスは重いことは重かったが、留まる気などは微塵もなかった。どよめく会衆。すっ転んだ新郎の悲鳴じみた怒号。風に高く舞い上がり、二度と此処へは帰らぬヴェール。どれほど舞台が壊れても、ショウ・マスト・ゴー・オン。ひとたび運命の輪が回り始めれば、何もかもが"もう遅い"。既に終わりは始まったのだ。
今更突っ込んできた警備の頭上で、どこに仕掛けておいたのか、無数の打ち上げ花火が炸裂する。大混乱に陥った人々には目もくれず、勇作は愛しいひとに向かって駆けた。焦がれて伸ばした白手袋の指先が、空を掴む寸前で黒手袋に迎えられる。
わずかに触れ、
確かに掴み、
そして深く絡み合った指と指。
――それを引き金に、愛の雷管に火が入った。
天蓋を震わす咆哮。神さびた制度の檻を突き破り、光の彼方へ加速する黒鋼の獣。
ふたりの契りに、見届け人は要らなかった。あるのはただ、煙と騒ぎと、走り去るエンジンの音だけ。
◇
過去を振り切って走るうち、ふたりは街の外れまで出ていた。信号も標識もない場所で、兄が不意にバイクを止める。そこに、懐かしい煙草の匂いが風に紛れて漂ってきた。木陰に立つ男は古ぼけた背広に襟のくたびれたトレンチを羽織り、けれどその胸元だけはきちんと整えられていた。結び目の小さな銀鼠のネクタイが、陽の下で白く華やかな祝意を纏う。
「菊田さん⁉」
「よう勇作、久しぶり。……どうだ尾形、景気のいい祝砲だったろ。俺の肝いりの演出だ。やはり結婚式ってのはエンターテイメントに限るな」
兄は得意げな顔の"相棒"と異母弟とを交互に見て、
「知り合いですか?」と、だいぶ怪訝そうに訊いてきた。
「むかし社の教育係だった方です。アルファとしても、オメガとしても半端者だった私に、公私を問わずよくしてくれました。出向先の事故で行方不明になったと、そう聞いていたのですが」
「……おい、なんで黙ってた」
兄の声が一段低くなると、共犯者は苦笑した。トレンチのポケットから引き抜いた手には、銃ではなく、白地に赤い標の箱がひとつ。菊田はそこから一本咥えると、空になった手をひらひらと宙に泳がせた。
「最初に言った『制度への復讐』ってのは嘘じゃないぜ。当時の俺ァ産業スパイでね、ほら、勇作が結婚させられるところだった新郎のところの」
「罪滅ぼしか」
「ちょっと違うな」
「でも、あの時あなたは私の素性を――」
秘密のままにしてくれたのでは。勇作が言いかけると、菊田は火のない煙草を指先で弄びながら首を振った。
「そいつは買いかぶりすぎだな。ベータの俺にアルファだのオメガだのは関係ない、俺は俺の損得を考えて行動したまでだ。実を言えば今回のこれもクライエントの依頼でな、渡りに船ってヤツで、お前さんの兄貴を利用させてもらった。……明日の株価、楽しみだな?」
「とんだ食わせ物だ」兄は大袈裟にマフラーを吹かした。「行きましょう、勇作さん」
「褒め言葉だね。気分がいいから、火消しはサービスしてやるよ」
「菊田さん……」
そのどこか淋しげな目も、やさしさも。何も変わっていなかった。感極まって言葉に詰まる勇作の背中を、菊田はポンと叩いて笑った。
「いい顔をするようになったな、勇作。あの頃とは大違いだ。……幸せにな」
「ありがとう」
「じゃあな」
「早く行けって」
バイクが走り出した後も、勇作は手を振った。こちらから見えなくなるまで、見送るその人に手を振った。あなたに幸多かれと。祈るように、何度も。
◇
西の空に、焼けた雲がわずかに残っていた。残照がふたりの影を長く伸ばしていたが、ほどなく一番星の出る頃だ。ハンドルを握るひとの猫背に、勇作はぴったりと身を寄せている。ライダースの下の腰は細く、しかし兄はその線を弟にだけは隠さない。この方が危なくないから、と言われた通りに腕を回すと、兄の匂いがやさしく胸を満たしてくれた。リラの花咲く頃を思わせる、甘やかな郷愁の匂い。
「兄様」
「なんです」
一緒にいたい人と、こうして一緒にいることができる。今この時が幸せだから、あまりにも幸せすぎてしまうから――勇作はどうしても、これを訊かずにはおれなかった。
「兄様は……どうして、私のような者を」
「呆れた。今更それを言うんですか」
兄は肩を竦めて言った。
「『助けに来た』と思うなら、勘違いも甚だしい。俺を呼んだのがあなたなら、俺を選んだのもあなたでしょうが」
「……そうでした」
「端から読みはついていました。番なんてのは所詮、制度のまやかしですからね。そんなものにあなたが靡くはずもない。ただ、それだけのことですよ。あの人、……あなたの父上がアテにならないのも、まあ想定通りでしたし」
「なるほど、」
饒舌と匂いから読める感情との落差を埋めるように、勇作は少し考えて言った。
「賭けていらした、ということですね。私が兄様を――兄様だけを愛していると」
「……」
「もちろん、愛しています。……愛しています、兄様」
「ははッ、熱烈だな」
「お嫌ですか?」
「さあ」
兄は曖昧に笑った。そうして、見晴らしのいい断崖でバイクを止めた。
「どうされました?」
「気になりましてね。勇作さん、熱烈なあなたが、どんな顔で愛を囁くのか」
ヘルメットを脱いだ兄が躊躇いがちに、しかし思い切りよく、ドレスの胸に飛び込んでくる。抱擁を返すと兄はそっと顔を上げ、露悪の乗り切らない笑みを浮かべた。嘘のつけない香りが、そして何よりも雄弁な瞳が、その切実を物語る。
「……だからもう一度、言ってください」
勇作は、黙って兄の手袋を脱がせた。兄も勇作の手袋を同じようにした。互いの指と指が、今度は何ら隔てるものなく絡み合う。"間違い"があってはならない――そう望み望まれて抑制剤で鎧ってきたこの身が、しかし今は確かに、他者の実存に触れる、あるいは触れられることを求めていた。勇作のたましいは歓喜に咽ぶ。
自分たちの身体は、生きるためのもの。制度のためにあるのではないのだ。
「声も出ませんか」そう揶揄する兄の声も、どこか少し震えていた。
呼吸も、鼓動も。命さえも。ふたりでひとつなのだという気がした。まだ首に残っていたリボンの、蝶々結びがするりと解ける。どちらからともなく、兄と勇作は顔を寄せ合った。あと一歩で彼我の境は何もなくなる、という刹那に、吐息のような言葉がこぼれる。
「「愛しています」」
陽は完全に沈み、ひとつのふたりを夜が包んだ。祝福の絶頂で、始まりの終わりが幕を下ろす。しかしそれは"すべての終わり"ではない――ふたりの前に、道はまだ続いている。黒鋼の獣は往くだろう。その背に叛逆の愛を乗せ、どこまでも遠くまで。