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Iconoclasm

 偶像をやめるということは、真実を詳らかにすることに他ならない。そこにたどり着くための釦を、兄の指がひとつ、またひとつと外していく。瀟洒なベッドの上に坐って、勇作はその時が来るのを待っていた。既に火の消えた部屋は冷えつつあり、毛布はあっても人肌の温度が恋しい。空はまだ暗かった。外の雪が星明かりを反射して、障子風の窓を深みのある青に染めている。
 狙撃兵だった兄の所作は今でも降りつむ雪を思わせて静かで、無常で、どこまでも他意がなかった。その狙いの一途が、勇作の血の記憶を呼び起こす。あの日。あの時。あの戦場。俄に光が弾け、すべてが崩れ落ちる最中さなか。旗手だった勇作は確かにこの一途を、――兄を近くに感じていた。
 愈々最後の釦が外れると、合わせから覗いた胸がしろじろと光った。撫でるような視線と冷気に、剥き出しの膚が粟立つ。兄の寝間着は勇作が既に同じようにしていたから、これでようやくお揃いだった。ふいごのような呼吸の音と、しどけない衣擦れの音が、青の静寂にひとかけずつも積もりゆく。目と目が惹き合い、兄だけが勇作を、勇作だけが兄を見ていた。覗く者をありのまま映し返す黒の眸。鏡合わせの二人の間に流れるのは、意味の充満した沈黙だ。その中を、ゆっくりと兄の指が伸びてくる。
 五、四。声に出さず数えて、勇作は息を呑む。三、二、一――。
「やはり駄目です……こんなこと」
「えっ」
 鉛ほども重いため息が聞こえ、兄が手を引っ込めた。突然のことに勇作は思わず目で問い返した。が、すぐに視線を逸らされてしまう。ふいと流れてゆく黒い流星。
「なんでそんなに驚きます」
 それを言った本人が、おそらく一番驚いていた。両手を自身の膝に下ろした兄は、続く言葉を言う代わりに、毛布の上の指をぎこちなく畳んだ。暗がりの中でいっそう白さを増す手の甲に、血の管が青々と筋張っている。そこに宿る震えは、きっと寒さの所為せいではないのだろうと思われた。
「ごめんなさい。あの、兄様を責めるつもりでは……」
 勇作の弁明もよそに、伏し目がちの兄は何か思案している様子だった。勇作は何か問いかけようとして、やめた。白面に落ちる睫毛の翳を見つめながら、向こうの言葉の熟すのを待っていた。が、その前にぐいと手首を掴まれる。呆気にとられている間に、兄は勇作の掌を自身の胸元に押し当てて、再び目を伏せてしまった。なだらかな丘陵は冬の静謐そのものだったが、触れたそばから火を埋めたように熱を持ち、――そして烈しく脈打った。勇作は先ほどよりも、ずっと驚いた。兄の動揺の震源地が、そこにあると知れたから。
「ずっと、壊れてないふりをしてました」遠い目の兄が言った。「壊れていては撃てませんから。でも今はこの通り、これでは狙いも定まらない」
 こんなはずじゃないのに、と兄は空いている方の手で前髪を撫でつけたが、すぐにまた一房が額にこぼれ落ちてしまう。何度繰り返してもそれは同じように綻びた。
「昔あなたの言った通り、俺にも罪悪感があった。だから俺も、今度はあなたのように愛せるかもしれないと思った。俺を愛してくれたあなたのように。……でも、わかってしまったんです。そうするには俺は裏切りを重ねすぎたのだと」
 淡々とした語りと迷う鼓動、ふたつの乖離が一段と激しいものになった時、俯いた兄の睫が、後ろめたさに震えるのがわかった。
「まして、あなたを殺したのも俺なのですから」
 その告白に、部屋の空気がしんと冷え切るのを勇作は感じた。しかし驚きはなかった。全力疾走する旗手の自分に対し、寸分の狂いなく合わせた射軸。計算され尽くした射角。同調や同期を超えて、もはや憑依にも近い読み。射抜かれた瞬間からずっと知っていた。それができるのはこの世に兄ひとりであること。夜明け前に伝えた言葉が兄の宿命と化したこと。そして――因果の果てに再び出会う兄が、己が過去を決して赦しはしないだろうことも。
「兄様がもう狙撃手に戻れないように、私も旗手には戻れません」言って、勇作は詰めた息をそっと吐いた。「もう軍人でも、皆のよすがでもないのです。その意味では、私も既に壊れてしまっているのでしょうね」
「それもこれも俺のせいです。あなたが復讐を望むというなら是非もない」
「復讐、」
 おうむ返しに言って、勇作は兄の氷像のような横顔をじっと見つめた。大きな黒い目が閉じられてしまうと、もとより顔に出ない彼の感情は愈々わからなかった。しかし隠された瞳の奥に並ならぬ懊悩煩悶のあることは、直に触れた心が雄弁に物語っている。その抜き身の心はまた、そこに触れる者の機微もしかと読み取るに違いない。勇作は意を決して、自らの言葉を研いだ。
「復讐……なのかもしれません。共に在れば私たちは否応なく、過去と向かい合うことになります。何ひとつ取り返しはつかず、やり直しは効かず、すべてがあの時の続きです。それはひどく痛みを伴うことでしょう」
 今の兄様が感じておられるように。思いながら、勇作は兄との接点に目を遣った。
「ですが、われわれは壊れながらも生きていて、ここにいます。すべてが終わってしまった後で、今ここに、いるのです。……互いに続きを望んでしまうことの道理としては、充分すぎるのではないですか」
 ぱっと瞼の開いたのは、その時だった。駄目だと言いながら自ら勇作に触れている矛盾に、――触れた部分で温もりを分かち合った事実に、黒檀の目は狼狽しきりだった。すぐさま退却を試みる右手を、今度は勇作が捕まえる。つめたく清らな甲に頬を寄せ、口づけを二度、三度落とすと、眉間の皺がもの言いたげに深くはなったが、反駁されることは終ぞなかった。
 部屋に満つる小夜の青が、いつしか底の方から澄んできていた。無窮の闇に溶けていたふたりの影も、朝が来ればひとりとひとりに戻る。此岸に永遠は存在しない。だからこそ、勇作は兄との時間を愛しく思う。今も、昔も。
「……今の俺とあなたは、」喉奥から絞り出すような言葉が、皺の寄った毛布の上に落ちた。「綺麗に終わった映画の、歓迎されない続編みたいなものだ」
 勇作は少し考えて言った。
「でも、私はそれを観ていたいのです」
「あなたの望む結末じゃないかもしれない」
「未来はふたりで選んでいけます」
「俺が『愛していない』と言ったら」
「兄様は嘘つきだな、と思います」
「往生際の悪いことですな、お互いに」
「まったく」
 そう言った唇を、兄が挨拶のように食んだ。勇作がすかさず食み返すと、兄はどこか諦念じみた――しかし同時にひどく熱っぽい目をして、二度、三度と、おとないを誘うような甘噛みを繰り返した。寝間着が火照った膚を滑り落ち、露わになる軀の線。筋肉の流れを目で追って、高鳴る想いにふたり分の呼吸いきが重なる。こぼれた前髪もそのままに、兄はもはや己を裏切ることをしなかった。恐れと切望の狭間で絶えず揺れながら、その揺れさえも曝け出し、偽らざる黒の眸が勇作を捉える――見ると同時に、見られるために。
「……途中で、降りたはずなのに」素顔の兄は自嘲めかして笑った。その澄みとおった雪白には、既に薄明の色が差している。「もうとっくに壊れてるはずなのに、俺はまたどこかに向かって走ってる。あなたを追いかけてるのか、それともあなたに追われてるのか。それすらもよくわからない」
「わからなくとも、われわれは前に進むしかないのでしょう?」
「まるで旗手のような言い草だ。でも、……」
 小さな失笑のあと、兄の指先が躊躇いがちに肩をなぞった。それに呼応するように、勇作も傍の背にたなごころを滑らせる。触れた、あるいは触れられた部分の、こわばりが春の雪のように融けてゆく。寒さは既に遠くなり、兄はもう震えてはいなかった。
「きっと、あなたが正しい。どっちにしたって俺はもう、あなたから逃れられる気がしない。笑ってくれていいですよ。……本当は何が欲しかったのか。すべて失くしてからしか、気づけなかった」
 勇作さん。名を呼ばれて頷くと、ややあって兄の唇が勇作のそれを浚った。一度はなくした生の輪郭を確かめ合えば、あえかな吐息が喉から洩れた。傷痕がそこになくとも、すべてを憶えている魂は軋る。愛おしさも。痛みも。知らずにいた頃には戻れない。でも、それでよかった。罪も過ちも引き受けて、かつての役を降りてなお、兄はまだ勇作を見ている。だから勇作も同じように兄を見る。夜が明けても消えない今を抱きしめて、勇作は身の深くで兄を求めた。

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