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あなたのいるブランチ

 通電したてはいつもちらつく蛍光灯、その青みがかった光の下。
「兄様、サンドイッチの具は何がお好きですか」
 身支度を済ませた勇作が、台所のカウンター越しに訊いてくる。
 楽しげに弾む声音が癇に障って、尾形は緩慢に頭をもたげた。時計の針が十時半を指しているのを見、それから目の端で勇作の方を見遣って、そしてほんの少しだけ感心した。
 ――そんな窮屈な場所に、その体躯でよく収まっているものだ。
「ご希望に添えるよう、いろいろと買い物をしてきましたので。なんでも仰ってください。できる限り、お応えしたいと思います」
 言って、勇作は溌剌と腕を捲った。日に焼けない膚が照明のためにいっそう白く見えて、尾形は思わず目を細めた。昔、汚れが目立たなさそうというだけの理由で買った冴えない色のエプロンですら、勇作が着るとなんだか様になるから不思議だった。
 花沢家の跡取りである勇作には当然、実家からの十分な仕送りがあったはずだが、喫茶店で働いていたことがあるという話もまんざら嘘ではないのだろう、と尾形は頭の片隅で思う。思いながら、手元のカップの中身をひと口啜ってみる。それは寝起きの頭に滲みるような香気をまとって、いつも自分で淹れる眠気覚ましの濃いばかり濃いコーヒーとは根本から違うような味がした。
 もっとも、勇作の話が本当だろうとそうでなかろうと、尾形には関係のないことだった。生まれてこの方、自分とは違って陽の当たる道だけを歩いてきたはずの腹違いの弟、その輝かしき過去なんか知ったところで、己がいっそう惨めになるだけだ。そんなものに近づいて良いことなどひとつもない。できる限り遠ざけておくに限る。
 だから家になど間違っても来てほしくはなかったし、実際、ただの一度だって歓迎した例はないのに、初めて出会ったその日から、勇作はなにかと理由をつけては尾形を構いたがる。兄様は何がお好きですか、ご趣味は何ですか、一緒にやりましょう、ふたりの方が楽しいです、兄様、兄様、顔を合わせる都度そんな調子で、尾形の方は食傷もいいところだった。が、花沢家、もとい父のことを思うと下手に追い返すわけにもいかず、またこの勇作も柔和に見えて意外に剛情頑固な性質であるので、尾形はさまざまな諦めから弟の好きにさせていた。
 今日、自分ではろくに使いもしない台所とくたびれたエプロンを貸してやっているのも、そういう訳なのだった。どうやらアルバイトで磨いた技を惜しみなく披露するつもりであるらしい。
 返事を待つ勇作の何ら屈託のない笑顔を横目に見ているうち、その手で(パンの)耳を落とすんですか、などと嫌味のひとつも言ってやりたくなって、渋々、尾形は別の言葉を探した。
「……なんでもいいです」
「そんな、どうか遠慮なさらずに」
 我々は兄弟なのですから、と持ち前の寛容を示す勇作に、
「本心です」尾形は無感情に言い放って、カップの中に視線を落とした。
「俺はわかりませんから、あなたが決めてください」
 これを言うのはもう何度目か。手の中のカップだけがぬくかった。
 ふたりの間に沈黙が落ちた。首を傾いで、尾形は漸く勇作の顔をまともに見た。そこにいる勇作はきゅっと口を引き結び、長い睫毛をいたいけに伏せて、何事か考えている風だった。端正な面立ちに落ちる翳は、思ったよりも沈んで見えた。
 たかだかパンとパンの間に何かを挟むだけのことに、どうしてこんな問答が必要なのか。尾形には心底わからなかった。わざわざ買い物などして来なくても冷蔵庫の有りものでも適当に使っておけばいいし、何もなければないで一枚で食べるだけの話である。もっとも、この部屋にはジャムやマーガリンの類はおろかトースターもないのだが、元々安上がりにできている尾形はそんなことにはとうに慣れていた。もとより手作りの、それも喫茶店で供されるようなサンドイッチなど、ここ数年食べたことがあったかどうか。
「それは、……」やがて躊躇いがちに勇作は言った。「サンドイッチの中身をですか。それとも兄様の、」
「そう深刻に取らんでください」尾形は遮って言った。「まあ、どちらにしても同じことのような気がします。あなたの求める答えは、おそらく俺の中にはない。……それがわからんほど愚かでもないでしょう、あなたは」
「私は知りたいのです。兄様のことでしたら、たとえどんなに些細なことであっても」
 かぶりを振る勇作の面持ちはいたって真剣なものだったが、それを見て尚、尾形には自分という人間にそんな御大層な中身があるとも思えなかった。
 己が空虚を見つめる尾形をよそに、勇作は熱心な様子で語を継いだ。
「我々が別に生まれ育ったこと、それ自体はどうしたって取り返しがつきません。でも、私は今からでも兄様と本当の兄弟になりたい。ですから、教えてほしいのです。兄様ご自身のことを、なんでも、……」
 瞬間、尾形のついた溜息で、濃褐色の湖面が揺れた。不機嫌を隠さぬ兄を前に勇作は何か言い淀んだが、唇を浅く噛みしめて、それ以上はものを言わなかった。
 部屋は再び静かになった。
 まとわりつく情から逃がれるように、尾形は視線を斜めに流した。手持ち無沙汰に、卓の縁を指で叩く。合板ですらない、表面に木目のシールを貼ったプラスチックの安物である。まさかピアノのように美しく鳴るわけはない。
「……本当、なんでもいいんですよ。俺は」
 なおも吐息まじりに言った尾形の、その胸の内を後悔の念が渦巻いていた。
 こいつを家に上げたのは失敗だった。というか、嫌なら嫌だと最初から毅然と対応すべきだったのに、最初の線引きを誤ったばかりに、ずるずるとこんなところまで来てしまった。花沢家や父のことも、所詮は言い訳でしかない。絆されていた。ただ血が半分繋がっているというだけで、生まれも育ちも違えば顔だって似ていない、実際にはほとんど他人も同然の――しかし決して赤の他人ではない、この花沢勇作に。
 あるいは、自分の手に入らなかった、手に入ったかもしれない人生をそこに見たのかもしれない。そんな輪郭の定かならぬ自覚が尾形にはあった。母親ごと父に捨てられ、自分には望むべくもなかった可能性。存在すら知らなければ、今も無関心でいられたろうか。
 いずれにしろ、尾形と勇作の日常はもはや分かちがたく接着していた。一緒にいすぎたのだ。今更縁を切ったところで、ひとたびサンドイッチになったものは元のパンとその他には戻らない。無理にそうしたところで、かえって欠落を感じるだけの話だろう。確かにここにいたはずなのに、というような具合に。
 本当の兄弟になりたい、と勇作は言ったが、良かれ悪しかれ、そういう意味では尾形と勇作は既に十分そのようであった。これ以上"自分たち"に何が必要なのだろうか。勇作には足りないそれがわかるのだろうか。尾形は余計にわからなくなった。そして愈々あきらめを感じた。
(こんな風に言うべき台詞じゃねえだろうにな)
 胸中自嘲しながら、けれどもう何もかもが面倒になって、
 何もかも勝手にしてもらいたくて、
 その台詞を口走らずにはおれない尾形だった。
「なんでもいいんです、勇作さん。……あなたの、作ってくださるものなら」
 言って、尾形はわずかに顔を顰めた。前髪を撫でつけた手には、勇作の淹れたコーヒーの温度がまだ聢と残っていた。

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