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未ダ罪ノ味ヲ知ラズ

 ガラス窓の薄い埃を指で払って、尾形はその向こう側を見た。通りに面した兵営の二階からは、麗らかな春の日和に色めく下界の様子がよく見える。
 吹くまでが遅いくせ、ひとたび吹いてしまえばなんとも遠慮のないことで、春風はとうとうこの兵営までも及んでいた。敷地内に一本だけ植えられた桜は第七師団の発足と同時に本土から持ち込まれた記念樹で、まだ枝ぶりの貧相な若木ではあったが、それがちょうど花の盛りを迎えている。それぞれに何か思うところがあるらしく、通りがかる兵の中にはその下で足を止める者も少なくない。
 人より遠目の利くこともあり、尾形の目にはそこに立つ同僚たちの何やら感慨深げな表情、そのひとつひとつが手にとる程にも近く見えたが、当の尾形にとってはどうでもいいことだった。花が咲いて散るのは自然のことで、そこに人間たちの考えるような深遠なる意味など実はないのである。が、国家が戦争をやるにはその意味とやらがなくてはならないことを、尾形はよく知っていた。よく知っていて、然しそれに殉じるような気には到底なれなかった。報恩、報国と言えば聞こえはいいが、そうしたところで尾形を褒めてくれる者は只のひとりもないのである。
 風に揺れる白の梢から、はらはらと花弁がこぼれ落ちてゆく。満開の今を過ぎれば、あとは散るだけが桜のさだめだった。
「兄様、……ですか?」
 耳慣れた声に、尾形は一寸開いたままの戸口を振り返った。跫音で気づいてもよさそうなものだったが、目的が目的なだけに人目を忍んでやってきたのだろう。つくづく律儀だな、と尾形は口を斜めにした。その胸中には根の深い侮蔑があった。
「勇作殿」
 尾形に名を呼ばれてようやく、勇作は扉の影からひょっこりと姿を現した。古びた木戸の縁を掴む両手指の綺麗に揃えられているのといい、どことなく照れくさそうな表情といい、その所作には如何ともしがたい甘さがあった。尾形は少し脇に退けて、〝特等席〟の半分を勇作に譲った。すると勇作は会釈と共に丁重な礼を述べ、尾形のあけた空白に慎み深く収まった。
「まさか兄様が先客でいらっしゃるとは」はにかんで勇作は言った。「桜、お好きなのですね。嬉しいです」
「ええ、まあ」と、尾形は窓に映った方の勇作を見ながら答えた。将校らしい精悍な面立ちの向こうに、咲きこぼれるような桜花が透けて見えている。
「見つかってしまった以上、兄様には白状いたしますが。見頃が近いことを知って、ここ数日、こうしてこっそり花見に来ていたのです。表立っては皆に示しがつきませんので、こっそりと」
「わかります」尾形は二度頷いて言った。「屋内では、この部屋からがいちばんよい角度で見えますね。それに、ここはもう長いこと物置も同然だ。寄り付く人間も少ない」
 尾形の言葉に、勇作はそれこそ花のように顔をほころばせた。
「ああ、嬉しいです。兄様も私と同じことを思っていらしたなんて」
「奇遇なこともあるものです。兄弟だから、でしょうか」
「兄様……」
 勇作はいよいよ感慨深げな面様で尾形の方に向き直った。真っ直ぐに注がれる憧憬の視線に内心白々としながら、尾形は自分よりもだいぶ上背のあるその相手に向けて薄く笑みを作った。春の陽気をよそに、肚の底が急速に温度を失っていく。
「旗手の勇作殿が桜に焦がれる様は、なかなか絵になりますね。美しい画題だ」
「そ、そうでしょうか……」
 まさか実の兄が悪意を持って待ち伏せていたなど、この異母弟は夢にも思わないものらしい。返事の代わりに鼻を鳴らし、尾形は冷酷な狩人の目をゆっくりと一分ほどにまで細めた。
「この時を待った甲斐がありました」
 撓垂れるように距離を詰め、
 伸ばした両の腕が手折るべき花のうなじを捕らえた。
「う、あ、兄様っ、あの、何を、……」
 勇作は自分と尾形の境に両掌で壁を作ると、恐慌じみて目を泳がせた。
「後生です、勇作殿。どうか俺に酬いてはくれませんか」尾形は宥めるように言った。
「それは……」
「みなまで言わずとも、あなたには伝わるものと思います」
「……いけません、」
 喉を絞るような声だった。
 体格で勝る勇作ならば力任せに兄を振り払うくらいのことは造作もないはずで、まだ礼節を気にする余裕があるのかと内心おもしろくない尾形だったが、勇作の白皙に薄っすらと、しかし確実に朱が差しているのを間近に認めるとすぐに機嫌を直した。言葉と言外の反応が矛盾する場合、大抵は後者が正しく、嘘やごまかしといったものはそうして看破される。尾形のよく見える、、、、、目はそういう時にも役に立った。
「体裁が気になりますか」尾形はわざと自嘲めかして言った。「それとも、なんですか。勇作殿は、俺のような者など……」
「違います!」
 勇作は慌てた様子で頭を振った。そしてほとんど反射的に尾形の肩を掴むと、不意に我に返ったと見えて、あっ、と小さく声を上げ、その武骨なようで繊細な手をおずおずと引っ込めた。
 卑下の言葉を遮られたことに、尾形は微かな充足を覚えた。尾形の思った通り、否、思った以上に急ごしらえの壁は脆く、元々あってないようなものなのだった。
 尾形がいつまでも目線を切らずにいると、その眼差しに耐えられぬとばかり、勇作は軍帽をいっそう深くかぶり直した。もはや耳の先までもが隠しようもなく赤かった。
「……違うのです、兄様」
 何も違わんでしょう、あなたと俺は。
 そういう意味の"違う"ではないと頭では理解しつつ、尾形は異母弟の純情と己が執着とを鼻で笑った。歩く高潔のようなこの男の化けの皮をひん剥いて、不可逆に穢してやりたいのは山々だったが、まさか事を急いて押し引きの加減を誤るわけにはいかない。だから尾形はいたって冷静に切り返して言った。
「では、どうしていけませんか」
「私の方も、兄様のことはお慕い申し上げております。お気持ちは大変嬉しいのです。ですが……兄様、」勇作は俯いて言う。「我々は血を分けた兄弟ではありませんか。兄弟でこのようなことは、その……」
「ははあ」煮えきらぬ言葉尻に、尾形は顎をしゃくった。「つまり、破廉恥だと」
 その言葉を勇作は肯定も否定もせず、ただ喉仏を上下させるだけだった。
 尾形は目の前の生白い首すじに顔を寄せると、くすぐるように吐息をこぼした。鼻先を漂う石鹸の匂いは高嶺の花らしい清らかさで、尾形自身にも染みついた兵営の悪臭からは限りなく遠い。
 しかし、それもじきに関係なくなる。
「半分ですよ」
「……」生唾を呑む音が間近に聴こえた。
「半分は同じ血が流れていても、もう半分は赤の他人でしょう。我々は互いに他人の部分で惹かれ合い、他人同士として交わるのです。それなら道義には悖りますまい」
「……そう、なのでしょうか」
「そうですとも」
 続きをしましょう、勇作殿。尾形はそう言っていよいよ合意を求めた。数瞬の後、軍帽の頭が恐る恐る縦に振られるのを見て、尾形は口だけで笑みを作った。

 半分は他人でも、もう半分では兄弟なのだから、そんなものは最初から詭弁でしかなかった。
 が、涙に潤んだ目が、細く整った鼻梁が、震えながら兄を呼ぶ唇が、たどたどしい舌遣いが、救いを求めて絡みつく指の熱が、その他花沢勇作という人を形作るすべてが己に似ないことに、同じではないことに、よもや気づかないでいられる尾形ではなかった。

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