欠けた月
お願いがあります、とおよそ普段の彼らしからぬ風体で目の前に現れた勇作を見ては、顔には出さぬものの、さしもの尾形も少なからず驚いた。何せ片足は靴も履かず跣で、軍袴の裾は濡れて色の濃さを増し、平時は陽に曝されぬ白々とした膚も露わに、腿近くまでも捲くり上げられていたのである。
生地に寄った皺からおそらくは入念に濯いだ後と見て、さては、と事の次第を察した尾形だったが、その訳は敢えて訊かずにおいた。話が長くなればなるだけ面倒だったし、それは給養生活に於いてはおよそありがちな躓きのひとつであるから、別段仔細を聞きたいとも思わなかった。実際、兵営ではしょっちゅう人が嵌るから溜め場が深すぎると救助が大変だということで、わざと浅く作っているという噂もあるくらいだった。
もっとも、大抵は喇叭の音で寝起きすることに不慣れな初年兵、あるいは泥酔して前後不覚に陥ったヨッパライのすることであって、白昼正気でやらかした人間を見るのは尾形も初めてだった。それも才気卓越、品性高潔なことで内外にその名を知られるあの花沢少尉がとなれば、よもや笑い話にもなるまい。おそらくは誰も信じないだろう。目の前でこの様を見ている、尾形以外は。
案外、粗忽なところがあるのだろうか。尾形が訝りながらも視線を戻すと、そこにいる勇作は面目なさそうに頬を掻いた。聯隊旗手の例に漏れず、この花沢勇作もまた背の高い美丈夫だったが、そうしていると実際の年格好より幾らか幼いようにも見えて、印象の相違、その違和感のために、尾形はわずかに目を眇めた。
「その……お恥ずかしながら、軍袴の替えを切らしておりまして」
先日補修に出したものがまだ戻らないのです、と困り顔の勇作に、
「花沢少尉殿」尾形はわざと畏まって言った。
「この間も申し上げたかと存じますが、あなたは俺の上官なのですから、お願いなどと回りくどいことを仰らずとも、ただ一言、命令すればよいのです。着替えを貸すように、と。必要ならば洗濯もいたしましょう。今回については、それで万事済むのではありませんか」
言われた勇作がその端正な顔を曇らせるのを、尾形の鷹の目は見逃さなかった。しかし、それも刹那のことでしかない。育ちの良い者が得てしてそうであるように、勇作もまた悪意の棘を物ともせず、真摯な様子でかぶりを振った。
「申し訳ありません、兄様。……兄様にとってはご迷惑な話だと、わかってはいるのです。ですから、私はこれを個人的なお願い以上のものにする気はございません」
兄様、という呼び名の気安さが鼻について、尾形は小さく吐息した。言うまでもなく軍隊という組織では階級が絶対で、本部勤務の少尉と所詮一兵卒に過ぎない上等兵とでは天地ほども立場が違う。が、軍紀を楯に何度たしなめても、勇作は呼称の上のみならず兄を立て、その態度を一向に改める気配がないのだった。
(それで俺が貸さないと言えば、困るのは手前だろうが)
とはいえ、この時期の旭川にはそぞろ寒い風が吹いている。専ら冷血で通っている尾形と言えど、まさかこんな状態の人間をそのまま捨て置くほど薄情ということもないつもりだった。まして相手は仮にも将校である。たとえ命令されなくとも、この状況に居合わせれば助け舟を出すのが筋だ。ただ、その上官であるはずの人物が――血の繋がりがあるというばかりに――あくまで情に訴えてくるのはどういうわけか、尾形にはそれがどうにも腑に落ちないのだった。こいつが他のエリート連中のように空威張りのろくでなしなら、どれだけ仕事がやりやすかったか。そんな風に思ってすらいた。
「そも、俺のでは丈が合わんでしょう」だから、これはそんな花沢少尉殿への嫌味のつもりだった。「なぜ俺のところへ? 他にあてはなかったんですか。あなたほどの人が」
後ろ手を組み、尾形は無感情に勇作を見た。父には似ない、長い睫毛に縁取られた眼がひとつ、ふたつと瞬いて、やがて微かな困惑の色を滲ませる。それでようやく、尾形はわずかながら溜飲の下がる思いがした。
神聖なる軍旗をあずかる旗手として、いつでも兵士たちの理想を演じ、他人に弱みを見せられないからこそ、一応は血縁関係にある自分を頼ってきたのだろう。身内ならば御しやすいと、そんな安易な目論見のもとに。きっとそうであるはずだ。尾形は腹違いの弟をそのように値踏みして、腹の中で嘲笑した。
一方、勇作は薄唇を開けては閉じることを遠慮がちに繰り返し、あとは躰の前で両手指を組んだり解いたり、どこか物言いたげにしていた。一体何を躊躇っているのか、尾形にはわからなかった。内心苛立ちながらも催促のつもりで小首を傾げてみせると、やがて勇作は随分と思い切った様子で口を開いた。
「い、いっとう先に、兄様のお顔が浮かんだものですから、……」
白皙を紅潮させて前のめりになる異母弟に、尾形は思わず瞠目した。
「……すみません、勇作殿。今、何と仰いましたか」
妙な気まずさを伴った沈黙の後、尾形が表向き取り澄まして訊ねると、勇作はハッとして身を引き、それからまた指の先で頬を掻いた。間近に見るといっそう迫力のある体躯に似合わず、そうしている時の勇作はやはり幾らかあどけない。
「あ、……いえ、兄様なら私の失態を笑わずにいてくださるかと」
その様をじっと眺めるうち、尾形の疑問は不意に氷解した。
兄に信頼を寄せる弟の顔というのは、おそらくこういうものであるのだと。
「そりゃ、とんだ買いかぶりですな」
言いながら、尾形はくつくつと笑い声を洩らした。
「もう笑ってしまいました」
後日返却された軍袴は、常日頃の勇作がそうであるように折り目正しく畳まれて、兵営という場所にはおよそ似つかわしくない、清涼な花の香りを纏っていた。それが彼の母の送って寄越す高級石鹸のものであることを、久しく肉親のぬくもりに触れぬ尾形が知るのはもう少し後のことだった。